どれ程神聖な想いと言葉と行いを使っても
「この場所」を知ることは出来ない。
どれ程神の名前を口にしても
「この場所」を知ることは出来ない。
人がこの場所に入ることは出来ない。
迷い多き魂が悟りを開いて
究極の場所に入る話ではなく
ただ「この場所」が現れている。
「私が悟る」のではなく
「源」が現れてくる。
想いと言葉と行いが人であり
「ここ」にはそのどれもない。
人の体が「この場所」を現すものとなる。
そう今回は「体のありよう」だけが変わる。
人と社会と自然の関わりの中で
体のありようだけが変わる。