「源」がそのまま現れる為の人の体。ただ体の動きを止めて意識の働きがなければそれはもう満ち満ちてここに現れている。それはやがて日々の営みの中にも現れるようになる。意識や音を使ったのでは意識や音の無い場所には入れない。だから人はこの場所の事が分からない。今回はこの場所が自ら現れてきた。立っていると「そのもの」が次第にハッキリと現れてくる。教えれば教える程迷路の中に入る。想いと言葉と行いの恐ろしさを知っている人はいない。「一緒に立つ時間の共有」だけで。