涙の理由を考える | 019|まる・いち・きゅう

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丸い地球をまわりながら考えていることの記録

涙を越えるということ・・・

涙を流すだけではなにも始まらないということを学んだ。
涙の理由を常に考えなければならない。
涙を越えて何ができるかを考えなければならない。

3月29日に行われた、週末テラコヤというイベント。
Hibakusha ~私たちが結ぶ過去と未来~
というテーマで被爆者の方3名と一緒にトークイベントのようなものを行った。

今まで、被爆者の方のお話を幾度となく聞かせていただいてきた。
船の中では毎日のように被爆者の方々の企画があった。
でも、今回、本格的に自分がこの問題に取り組み、人に伝えるようになってから、
改めてきちんと被爆者の方々の話を聞くのは初めてだったかもしれない。

改めて、人の心までをも傷つける核兵器のおそろしさを感じたし、
自分が核問題に関して、無関心を装い続けてきたという事実を改めてつきつけられ、
どうしていいかわからなかった。

悲しみと、無念さ、自分への怒りと悔しさ・・・
色々な感情がぐるぐる回り、
自分に話す番が回ってきた時、涙が溢れてとまらなかった。

あれから、3週間。

被爆者の方々の話を聞いて泣いていてはいけない。
心を動かされ、涙を流している自分に満足してはいけない。
そう感じるようになった。

職場の人に言われた。

「涙の理由を考えなければいけない」

「そのあとに、だから何をしなければいけないのか考えなければいけない」

最近、薦められて読んだ本にも書いてあった。

大事な時にこそ、泣いてはいけない。唇をかみしめて涙をこらえれば、なぜ悲しいのか必ずわかるから。もし泣いてしまったら、涙の源泉へたどり着くまで思考しよう。

ひめゆりの人々は、私たちの体験を「泣くな」、と言う。青春のジェノサイドを聴いて、怖いこと、かわいそうなこと、のレベルで受け止め、自分でも理解できないところからわく涙を流している限りは、負は負のまま、死んだ人は犬死にのままだ。なぜ「私」は涙をながすのだろう?悲しいから。なぜ悲しい?かわいそうだから。なぜかわいそうなんだろう?そうやりながら源泉にたどり着いたとき、もう悲劇を起こさせないために「私」がするべきことを考える。負の遺産はそのとき、正の遺産へ価値を転換する。そして何よりも大切なことはその回答は一つとは決まっておらず、人の数だけ出されるということ。死んだ人にできることは、無言で語りかけることだけ・・・価値の転換を果たすのは生きているいのちを持つ若者だ。


「平和は「退屈」ですか 元ひめゆり学徒と若者たちの500日」(下嶋哲朗)岩波書店

本当に、被爆者の方々の話をこころで聴きたいと思い、
語られたものを継ぎたいのだと思ったら、
涙なんて流しちゃいけない。
我慢して、なぜ涙が自分の中から溢れようとしているのか考えなければならないようだ。

被爆者のみなさんの言葉が、
とても澄んだ音を出して、私の心に響くようになった。

だけど、次は、震える心と一緒に涙を流すのではなくて、
震動を、この響きを他の人と共有するにはどうすればいいか、
二度とこんなにも人の心を震わせてしまうような体験をする人が
うまれないようにするにはどうしたらいいか、
感動する自分に酔いしれずに、考えなければいけない。

「核廃絶」とかっていう言葉よりも、
「平和」とか「戦争反対」っていう言葉のほうがみんなにすっと入っていく。

漠然としたもの、大きくてつかめないようなことばっかり人に入っていって、
もっと手の届くことが、入っていかない。

地球温暖化反対だけど、「電気消しなさい」といわれれば嫌。
健康がいいといいながら、「朝食は抜き」「好き嫌いあり」。
平和がいいけど核兵器うんぬんは興味なし。

それぞれ理由があるのはわかるけど・・・
灯台下暗しっていうのかな?

大きいものと小さいものがつながらない。
小さいものが大きいものにつながっていくっていうのがわからなくて、
突然大きいことが実現すると思っている。

なんだかへんなの。
でも自分もそういうときがある。

一攫千金じゃなくて、やっぱりありとキリギリスのあり思考が必要なんだよね。
一夜で夢は叶いません。

誰もがみんな、健康で幸せに、いつまでも続く平和な地球に住みたいって思っているに決まっている。
そんなことを、いまさらとやかくいってもしょうがない。

それに向かって何ができるの?でしょ?

漠然とした大きなことのほうが人に入っていきやすいのは、
誰もが簡単に理解でき、納得できることだから。
でも、それじゃあ、何も進歩しない。