日本語の勉強で、むずかしいところ、といわれるとカタカナ、ひらがな、漢字があることは明らかなことだが、そのほかにも、いいたいことが、文の一番後にくるというのがあるようだ。

 

このひらがななどの文字の違いは、明らかな違いなので、よくわかるが、これは言われてみれば、あ~そうなのかもなぁ、と気づくことである。

 

「友達と、レストランでご飯を食べる」も、理由だと、ご飯を「食べたので」、仮定だと「食べたら」、現在、未来だと「食べます」、過去は「食べました」、受け身も「食べられた」、進行形は「食べています」、否定は「食べなかった」、接続だと「食べて」と一番文の最後で表すことになる。

 

これを活用というのだろう。僕はこの活用という言葉が苦手で、高校の古文で出てきた。古文もわけかわらなくて、活用形変化、といわれると、ああ嫌だ、もう聞きたくない、となる。この文法を説明するときに、「活用」という言葉じゃなくて、もっといい言葉ないかな、と思う。

 

これは韓国語も同じだ。そうすると、勉強してる人にとって、いまいち文末って注目してなくて、先頭から真ん中の部分を言うのに精いっぱい。で、文末がどんな形だったかわからなる。あれ、どんな形が来るんだっけ、といった感じで、もごもごしてしまう、ということになる。

 

だから難しいということになる。文の最後だからあまり注目してないから、というか、真ん中を言うのに神経集中してるから、ともいえる。英語のように「I ate  a meal」のようにかなり早い段階で、過去や未来を表す言葉が出てきてくれれば、これを言ってしまってあとは他へ集中できるのに、ということなのだ。

 

英語には「the」とか「a」の定冠詞がある。the pen とa penで、これが結構重要らしく、これがないと、どのペンをさすのかわからないのだという。特定のペンなのか、どれでもいいペンなのか、ということらしい。

 

僕も理屈ではわかっているが、なにがそんなに大事なのかは体感としてわからない。

 

これは日本語はもちろん、中国語、韓国語にもない。定冠詞がない国の人にとっては、そんなことどうでもいいじゃん、とか、そんなこと言わなくてもわかるじゃん、となるから、おもしろいところである。