受験期を終え、それぞれの進路が決まり、新たな年度になりましたね。


受講生さんも、子どもさんの行く先が決まり、想いを新たにされています。

 

子育てって、毎日のことです。


ついついズレてしまう子育ての方向性のリセットできたり、


私たち親のメンタルを癒せる場があることが、

受講生の方のお役に立てていればいいなと、いつもそんな気持ちでいます。

 

 

親業訓練講座は、終了の時が始まりの時です。


ギュッと詰まった内容を体験学習して、更に日常で使いこなすことで、血となり肉となります。


そして、何度も受講するのは本当におすすめです。

 

2回目以降、さらに皆さん、確実に感受性が豊かになっているのがわかりますから。

 

自分の気持ちの揺れにも敏感になっていることを感じたり、

以前とは違うところに、焦点を当てている自分を感じたり、

まだまだ、理想の姿とは言えない自分を感じたり、、、、

 

 

とまあ、

事象は同じなのに、受け取り方はさまざまで、

 

まさに、人それぞれ感じ方が違うなあと、感じています。

 

受講される方の「認知」「感受性」が広がると、

講座の内容は、同じなのでも

 

フッと、腑に落ちることとか、

ああそうか~と、改めて感じる事とか、

 

受け取れることが、より深くなっていくようです。

 

 

また、

以前とは違うご自分を感じたりして、

そんな

受講生の方が成長の様子をひしひしと噛みしめているのを感じるのも、長く学ぶことの楽しみのひとつです〜

 

 

クローバー

 

 

時々、話に出る、

「偽りの受容」の危険性について。

 

一生懸命、子どもの為に良かれと思い

育児書やカウンセラーの先生の言う通りにやっているのに、親子関係がしっくりいかないな、と感じている時、


「偽りの受容」に注意する必要があるかと思います。

 

ここは、

子育ての落とし穴と言えるかもしれません。

 

 

ただ、

子どもの問題が大きすぎて、自分も辛すぎて、

今の状況を何とかしたい!と思い過ぎている時、

子育ての正解を求めて、目先の解決策を、片っ端から試してみたくなります。

 

 

 

子どもの側からすると、そんなことを求めているのではない、ということがあります。

 

 

子どもにとっては、

「理解ある親」は、いいようのないツラサを感じる事があるようです。

 

 

以前にも、書いてましたね

 

 

これは、

理解ある親が悪いのではなく、理解のあるふりをしている親が子どもにとってはたまらない存在になる、ということです。

 

 

親の人としての自信のなさに、

ショックであり、幻滅する、げんなりする、ということのようです。

 

 

 

クローバークローバー

 

 

上記は、河合隼雄先生の「こころの処方箋」からのコトバですが、

「父親の力 母親の力」にも、同じような内容があります。

 

 

 

 

 

 

先生の記述によると、

 

悪い成績をとってきても、母親が少しも怒らないで、「次に期待しているわよ」とか言ったりすると、家の中がどんどん氷のようになってきます。

その母親も心の中では「こんな成績では絶対にダメ。こんなのは私の子じゃない」などと思っている。(中略)そこをぐっとこらえて「次に期待する」などと言っているから、心の方がどんどん冷たくなっていくのです。そして子どもはその冷たいところだけを敏感に感じてしまうのです。(中略)家の中でおかしなしんぼうをすると、よけいに裏目に出てしまいます。子どもは親の素直な感情を知りたがっているのに、それを隠してしまうから、お父さんやお母さんがほんとうに生きているかどうかわからなくなるのです。(中略)だから、子どもは、「ほんとうは親はどう思っているのか」と疑問を持って、それを試す意味で、おかしなことをしたりするようになるのです。

 

 

 

ここを読むと、

ドキッとした方も多いんじゃないかな。

 

 

まさに、

偽りの受容の悪影響です。

 

 

子どもを受容することは、子どもの成長にとって望ましいことであるのは確かですが、

それよりも大切なコトは、

親が、ホンモノの人であることです。

 

 

本当に、

親が自分のダメさも引き受けて、人として率直な姿を見せることが大切なんだと、思います。

 

親の情けなく、自分を生きていない姿を見せつけられるのは、

子どもにとってもたまらなく辛く、

幻滅し、

情け無く、

オモシロくない事なのかもしれません。

 

 

ここは、

親子関係の修復には、避けて通れないところ。

 

 

親にとっては、自分の生き方そのものを根底から見直さざるを得ないほど、躊躇することなのかもしれません。

 

 

 

私たち母親は、

普段、自分は何を感じているか、なんて、

あまり意識して生きていないからです。