沖縄本土復帰の日 | 水祈(藤娘・改)のKey Note

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ヤフブロ移転しました…でもそれ以前の記事もある(笑)
よろしくお願いします。

(この記事は、2020年5月15日の記事を再編したものです)

今日は、沖縄がアメリカから日本に返還されてちょうど50年になる日です。

これだけ見て、ピンとくる人とこない人がいると思います。
今日は少し、沖縄の歴史を振り返ってみたいと思います。

歴史上で、沖縄の前身である「琉球国」が確認される最初の記録は、中国の『隋書』にある「流求国」の記載です。
その頃、大和朝廷は推古天皇(日本初の女性天皇)の治世、つまり聖徳太子が摂政を務めていた頃…遣隋使が送られていた時代です。
隋書には、流求国では隋の言葉が通じず、仕方なく持ち帰った甲冑を遣隋使・小野妹子に見せたところ、「これは夷邪久(イヤク)国のものである」と答えた、と記されているそうです。

その頃の琉球は、まだ小さな国が乱立している状況でした。
三山時代など勢力争いの時代を経て、統一国家としての「琉球王国」が成立したのが、1429年頃でした。
本州では室町時代、6代将軍・足利義教の時代です。
琉球王国は、中国・朝鮮・日本(本土。大和)に留まらず、東南アジアの国々も含めた貿易の拠点として、成功を収めました。
16世紀には、諸島部に勢力を広げ領土を拡大しつつも、明に対しては冊封国(従属国)という立場を強いられることになるます。

ところが1609年、薩摩藩による琉球侵攻が起こり、琉球王国は薩摩藩の冊封国とされ、貢納を義務付けられます。
この事態に対し、江戸幕府は琉球王国を独立国として認める方針ではありましたが、双方の為政者(江戸の徳川将軍、琉球の国王)の代替わりに際しては、琉球使節の江戸上りを慣習とするなど、幕府の方が上の立場としていたようです。
また、琉球侵攻の3年後に、幕府は鎖国を決めますが、「薩摩藩の従属国であり、江戸幕府の支配下にはない」という微妙な立場を利用して、薩摩藩の海外貿易拠点という側面も負っていました。

そして明治維新の後、1879年に、琉球処分により、琉球王国は沖縄県として、日本の一部とされます。
(何せ、維新政府の片翼である薩摩藩が、琉球王国の宗主でしたから!)

第二次世界大戦では、日本最大の地上戦と言われる沖縄戦の戦場となり、その被害は2ヶ月弱の間に県民の4人に1人が犠牲になるほどでした。
1945年6月23日、沖縄は陥落しました。

戦後はアメリカの占領下に置かれ、米軍の主導で「琉球政府」が建てられ、日本の施政権は停止されます。
米軍は沖縄の土地を大規模に接収して基地を置き、朝鮮戦争やベトナム戦争の際に前線補給基地として重要視されました。
しかし、米軍による非人道的な行いに対する抵抗運動が起こり、また世界情勢の変化や日本の戦後復興も相まって、1972年5月15日、ようやく沖縄は日本に返還されました。

ところが現在でも、沖縄の基地問題は解消されていません。
沖縄県の約8%(本当に限れば15%)に、今も米軍基地が置かれています。これは、日本の国土の0.6%しかない沖縄県に、日本国内の米軍基地の70%が置かれているということでもあります。
今現在も、辺野古に新たな基地を建設するという問題が起こっています。

沖縄県は、日本の一部です。属国でも植民地でもありません。
であれば、一部の負担を強いることはあってはならないと、私は考えています。
周辺情勢に翻弄され続けた沖縄ですが、これからは「同じ日本人として」の視点で解決策を探していきたいものです。