『山のあなた』 カアル・ブッセ

 

山のあなたの空遠く

 

「幸(さいはひ)」住むと 人のいふ。

 

噫(ああ)、われひとゝ尋(と)めゆきて、

 

涙さしぐみ、かへりきぬ。

 

山のあなたになほ遠く

 

「幸(さいはひ)」住むと人のいふ。

 

以上は、詩人・上田敏(うえだ・びん)の訳詩集『海潮音(かいちょうおん)』に収められた『山のあなた』という有名な詩である。

 

作者のカール・ブッセはドイツ出身の詩人で、ヘルマン・ヘッセの才能を高く評価したことが文学史上において特筆すべき点ではあるが、本国のドイツではほぼ無名という扱いを受けている。

 

同様に、運動会でBGMとしてお馴染みである『クシコス・ポスト』の作曲者ヘルマン・ネッケも、日本においては有名な音楽家に数えられているが、こちらも本国では、2018年6月現在、ドイツ語版にウィキペディアがないほど無名である。

 

このように、「日本では有名だが、ドイツでは無名」といったギャップは、明治時代に流行した「ドイツに対する憧れ」(例として森鴎外のベルリン留学など)が原因と考えられるが、ぼくはこちらに詳しくないため、説明を省略する。

 

さて、『山のあなた』は、リズミカルな詩ではあるが、現代風に翻訳してしまえば、「山の向こうに理想郷があるらしく、行ってみたけど何もなくて悲しい。けど、更に山の向こうに理想郷があるらしい」といった具合だろうか。結論としては、理想郷はなかったというバッドエンドであることが伺える。

 

こうした詩の解釈は個人個人に任せるものとして、ぼくが敬愛するフランス文学者の澁澤龍彦(しぶさわ・たつひこ)は、『快楽主義の哲学』の中で、『山のあなた』について、次のように書いている。

 

「わたしはこの詩が大きらいで、どう考えてもカール・ブッセという人は、つまらない三流詩人ではなかったかと思う。(中略)身分不相応なことを考えてはいけない。現在の境遇に満足して、手のとどかない幸福などに、むやみにあこがれてはいけない。所詮、幸福などというものは、ただ遠くからぼんやりながめていればよいのである。」(澁澤龍彦『快楽主義の哲学』(文春文庫、1996年)、p35

 

「「山のあなた」の幸福は、追いかければ追いかけるほど、どんどんわたしたちから逃げていきます。砂漠の蜃気楼みたいに実体のないものだ。(中略)それよりも、自分でつくり出す快楽、実践のうちからつかみ取る快楽こそ、ほんとうの魅力があるのではないでしょうか。」(澁澤龍彦『快楽主義の哲学』(文庫文庫、1996年)、p37-38

と、実に澁澤龍彦らしい、ひねくれた解釈を行っている。

 

どこまでいっても好みというものは、人それぞれ。ぼくは、無駄に現実主義なところがあるので、こうした実像が見えない『山のあなた』みたいな詩は好きではない。

 

別に、『山のあなた』のネガティヴキャンペーンをしたいわけではないが、必ずしも「名訳」というものが、万人受けするかと言われれば、そうではないということを、書いてみたかった。

「万人受け」という言葉は「全員受け」ではない。所詮、「万人」という単位でしかない。

 

ちなみに、ぼくは『海潮音』であれば、一番最初に紹介されているイタリアの作家ガブリエーレ・ダンヌンツィオの『燕の歌』が好きなので、青空文庫のリンクを貼り付けたところで、今回の内容は終わりにしようと思う。

 

https://www.aozora.gr.jp/cards/000235/files/2259_34474.html