人生は苦しいものである。人生には苦しみが
つきものであり苦しみのない人生などない。
そんなことは誰もが知っている言わずもがな
のことである。
私の父と母は浄土真宗の寺に立つ墓石の下に
眠っている。浄土真宗では阿弥陀仏を信仰す
る。しかし阿弥陀仏は現実の出来事には介入
しない。阿弥陀仏の誓願が目指すのは我らを
死んだ後に極楽浄土へと往生させることの一
点のみである。その誓願は既に完成されてい
る。だからそこへさらに現実の出来事に介入
するのは屋上屋を架すことになる。そしてま
たその誓願は平等なものでもある。だからそ
こで特定の出来事に介入するのはその平等を
損なうものである。これらの理由から阿弥陀
仏は現実に出来事には介入しない。現実の人
生における我らの苦しみそのものには飛ぶ鳥
の跡を残さぬが如く関知しないのである。
ユダヤ教のラビであるH.S.クシュナーには息
子がいた。その息子はプロジェリアと呼ばれ
る病を負ってこの世に生まれ14歳でこの世か
ら立ち去った。クシュナーはその重い苦しみ
に緊縛されながらもなお己が信仰を棄てなか
った。信仰を棄てることで失うものがあまり
にも大きかったからである。そしてその信仰
と冷厳なる現実とを両立させるために或る結
論に到達した。それは「神は全能ではない」
という主流派からは大きく離れた見解であっ
た。自らがラビでありながらもクシュナーは
その見解を公にしてはばからなかった。それ
が己の信仰を保つための唯一の道だったから
である。
クシュナーの見解は阿弥陀仏の姿勢とよく似
ている。しかし異なる点もある。
神が全能でないならばなぜ祈るのか。一体何
を祈るのか。それは不幸や困難や苦悩に立ち
向かう勇気を得るためであるという。その一
方で阿弥陀仏に念仏を唱えるのはなぜか。そ
れは報恩のための念仏であるという。自らを
死後に救ってくれると誓った阿弥陀仏への感
謝の表れなのである。
クシュナーによれば現実の人生で遭遇する苦
悩は神からの試練や罰ではない。それは偶然
による巡り合わせでしかない。しかし仏教で
は現実の人生で遭遇する苦悩は己の煩悩によ
るものとされる。だから念仏は不幸や困難や
苦悩に立ち向かう勇気を得るためではない。
そんな勇気を持つ力のない弱いものさえも救
ってくれる誓願への感謝の表れなのである。
そこにあるのは勇気ではなく希望である。己
の煩悩を絶ち切られぬ凡夫の最後の希望であ
る。誰の空にもまたたく星辰の光である。そ
れは全く平等な光である。死の訪れが誰にで
も平等であるのと同じように。
私の父と母は浄土真宗の寺に立つ墓石の下に
眠っていはいない。阿弥陀仏に導かれ美しい
極楽浄土で静かに暮らしている。墓石の下に
あるのは焼かれた骨だけである。それは全く
味気のないつまらぬ現実である。そのつまら
ぬ現実の中にこそ希望の光が宿っている。
人生は苦しいものである。それは誰もが知っ
ている言わずもがなのことである。その苦し
みやまぬ人生を照らす星の光がある。誰の空
にも平等に降り注ぐ希望の光である。それは
決して己の弱さへの開き直りでも自暴自棄で
もない。その光とは己自身への非暴力。内な
るアヒンサーである。神からの罰を否定した
クシュナーの見解もまた内なるアヒンサーで
あった。父と母が逝くまで私はその光を知ら
なかった。その星の光こそが父母の遺してく
れた最も大きな遺産であった。