私は詩を書きます。
その題材は、様々な草木や花々、虫や小動物、そして人生で出会う様々な苦悩などです。
しかし、書けない題材もあります。それは戦争の惨禍や、地震や洪水などの大きな災害についてです。その理由は端的に、自分が体験していないからです。

○ 戦争や災害ついての詩

それでも戦争についてはこれまで、様々な反戦の詩が書かれていますから、その流れを受けて自分なりの反戦詩のようなものを書いたことははあります。しかしそれはやはり漠然と平和を求めるような内容のものにしかなりませんでした。

そして、大きな災害については、私は今まで一度も体験したことはなく、被災地の様子を自分の目で直接見たこともありません。
ですからそれについては、どのように書いたらいいのか、あるいは、そもそも当事者でない者が書いていのか、という疑問が先に立ち、筆(指)が止まってしまうのです。

以前、9.11のテロのすぐ後に、ニューヨークを訪れた日本の旅行者が、まるで観光名所を見るような姿勢でツインタワーの跡地を眺めていたことにがニューヨーク市民から批判された、という話を聞いたことがあります。
自分はそれと同じような事をしようとしているのではないか、という気がしてしまうのです。

もし、それでもなお書くとしたならば、自分の想像力や表現力のどうにもならない限界をそのまま描くしかないでしょう。(無論これは個人的な感覚であって、善いとか悪いとかいった、一般的な価値判断ではありません。)

○ 当事者が書くということ

一方、その大災害についての詩を、当事者(被災者)自身が書くということについてはどうでしょう。そこには描かれたものが、当事者でない外部の人々にどれほど伝わるのか、という問題が横たわっています。
当事者がその想いや感情をどれだけ詩の言葉に込めたとしても、外側にいる人々との間にはなお、大きな壁が立ちはだかっているのではないでしょうか。
詩の言葉にできるのは、その壁に小さなのぞき窓を開けることくらいのような気がします。しかもそれは、外側からではなく、内側からしか開けられないものなのでしょう。大きなハンマーではなく、小さな鑿と鎚を用いて。

○ 詩のできること

詩は水や食料を運んでくることはできません。ライフラインや住宅を再建することもできません。
その言葉ができることは、内側と外側とを隔てる壁の、大きさと分厚さを示すことなのかもしれません。
でもそれは詩の無力さを表すものではありません。それは私たちの新たなスタートラインを示すことなのです。