承久の乱・尾張一宮で軍議 | 岳紫のブログ

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承久の乱・尾張一宮で軍議

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が佳境に入っている。承久の乱の際、尾張一宮(一宮市)で幕府側の軍議が行われていたのである。「いちのみやの芸術文化」第58号特集や、ネットで検索される。

 「承久の乱」(承久3年―1221)は、源頼朝が開いた「鎌倉幕府」に対し、不満を持った当時の朝廷が兵を率いた事件である。後鳥羽上皇が再び上皇中心の政治を取り戻すべく鎌倉幕府を打ち滅ぼそうと、有力な御家人に対して北条義時追討の院宣を出した。

 鎌倉幕府側の北条義時と、朝廷側の後鳥羽上皇が衝突した。幕府軍東海方面隊が、承久3年(1221)6月5日の辰の刻(午前8時ごろ)に、熱田神宮を経て尾張一宮の鳥居の前に到着した。

 鎌倉時代の尾張一宮真清田神社前付近は、まだ門前町は出来ていなかったと思われ、鳥居前とあるが、第一鳥居は富士三社南にあったことから、軍議が行われたのはどの当りだろうか。

 幕府側両将の北条時房、北条泰時以下、皆控えていた。軍義を開き、鵜沼の渡、池瀬、板橋、摩免戸、墨俣の5ヶ所の要害に兵を差し向け、特に重要な場所である摩免戸に北条泰時と三浦義村など、墨俣に北条時房と安達景盛などを差し向けた。木曽川を越えて美濃の戦いで、幕府側が勝利した。

 最終的に幕府側の北条氏が勝利し、後鳥羽上皇は配流された。承久の乱は、武家政権が大きく発展するきっかけとなる歴史上で重要な戦いとなった。(岳紫のブログ3565)

 

 

承久の乱美濃の戦い・進軍&位置関係図


 いちのみやの芸術文化より

 

ネットより