木曽川大舟の建造地 | 岳紫のブログ

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木曽川大舟の建造地

木曽川には大船・石舟・漁舟など、川で生活する大勢の人たちの大小の舟が運行していた。昭和20年(1945)代の話であるが、北方村(一宮市北方町)の木曽川畔で、舟を建造しているのは3か所であった。名鉄本線上流では小舟の建造が2か所、すぐ下流で大船・小舟の建造が1か所であった。その時代に大船の建造が、美濃加賀ノ井と聞いていた。

 最近、浅井武さんが執筆され、寄贈いただいた冊子「日光川 ロマン」(2021・4)に、明治17年(1884)馬引村(一宮市大和町馬引)の浅井与兵衛が、愛知県令に「新規造船御検査願」を出した古文書の写しが添付されている。日光川岸の繋船(三間)を、美濃匡中島郡加賀ノ井村の後藤貞蔵を雇って新規造船したことが書かれている。

この古文書に書かれている舟は三間であるが、北方村木曽川畔の船頭さんから、美濃加賀ノ井村へ大船建造を依頼していたこともあるという話と関連がありそうである。

 日光川は、往古木曽川八支流の一つで、大きな川幅を持っていたという。天正14年(1586)の大洪水で日光川の川幅はやや狭くなったが、濃尾地震以前まで積荷を積んだ船の往来があったと記録されている。(岳紫のブログ2877)

 

    新規造船御検査願

 

  木曽川のポンポン船

 

 

  木曽川畔の小舟