1回目の一宮大空襲 | 岳紫のブログ

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1回目の一宮大空襲

一宮大空襲の1回目は、昭和20年(1945)7月12日の深夜から13日未明にかけてである。サイパン島を基地とする米軍B29による大量の焼夷弾爆撃をうけ、1回目の大空襲では、市街地北・東郊外が大きな被害を受けた。特に、日本毛織一宮工場が目的にされたのか、今伊勢町地区の被害が甚大であった。

蓮西寺(今伊勢町本神戸字寺前)では、寺が12日深夜の空襲で全焼したので、毎年7月12日に「平和を祈る鐘」をつく行事と13日に「戦災を語る会」が開催されている。

2回目の大空襲は、28日の深夜から29日の未明にかけてであり、これにより市街地の大半が焼失した。

昨年、最初の一宮大空襲の日を、「12日深夜から13日未明」と市が公式に訂正したにもかかわらず、間々従来通りの13日とされていることがある。

先日、一宮市博物館学芸員から「東海近代史研究第17号」(1995)のコピー、西形久司先生の論文「米軍資料からみた一宮七・一三空襲」をいただいた。この論文による根拠のアメリカ軍の「作戦任務報告書」によると、焼夷弾の投下時間について「一宮の上空に進入し、15時53分(13日0時53分)から17時45分(13日2時45分)まで」投弾とある。

一宮市警察署の記録(12日23時06分〰13日2時24分)や、公的史書、被災住民の具体的な証言である12日深夜からの焼夷弾被弾と異っている。

「一宮七・一三空襲」の表記に異議があり、「作戦任務報告書」の信ぴょう性を疑う。




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