岐阜かご大仏と一宮 | 岳紫のブログ

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岐阜公園の近くにある黄檗宗金鳳山正法寺の岐阜大仏は、一宮市瀬部や江南市の竹細工を職とする人たちがかかわった「かご大仏」であると云い聞かされていた。 

最近の名鉄マガジン「Wind」連載の名鉄沿線珍ハッケン紀行その17に、「大竹敏之の日本三大仏の誕生秘話と秘密の回廊 岐阜大仏」が取り上げられていた。

 その文中、大仏の骨組である「籠」の編み手を含め像営に携わったのは、住職の奥様のことばとして「和傘、提灯、(中略)など岐阜の伝統工芸の職人さんたちの、技術を結集して作られている」と記されている。小見出しで「美濃の匠の技を結集した別名・籠大仏」とされ、建立の経過記事でも「地元のモノ作りの技を生かして作ったのだった。」と結ばれている。    

      

 改めてインターネットで調べてみると、岐阜市教委のホームページでも「岐阜提灯、岐阜和傘など岐阜の文化が関係していると云われている。」とだけ記載されてあり、かご大仏の造営に携わった尾張の人々の貢献した記述が見当たらないのである。

 旧一宮市史西成編に「明和年間(17641772)岐阜正法寺に籠細工を以て大仏を造像する事となり、瀬部の籠作りに謀られたので、即ち近村同業の人々数百名を率ゐて同寺に赴き、盧遮那佛(中略)大座像を約1ケ年間にて造像」(原文のまま)とあるように、瀬部・浅井、東野・松竹地区などの竹細工職人が、高さ13.7m、耳の長さ2.1m、鼻の高さ0.4mのかご大仏の骨組を編みあげられたのである。

     

 尾張西北部地方の竹細工は歴史が古く,尾張名所図会に「瀬部の竹篭造」図が掲載されているほど、竹細工の生産が盛んであった。浅井町地区には町史に記録されているように、近年まで提灯・雨傘。蚕篭などの竹細工を職としていた家が何軒もあった。

 このように尾張西北部には良質な竹が生育していたので、手軽に竹細工の技が進化していったのであるし、その技が広く知れ渡って、尾張藩から木曽川の堤防を守る蛇籠造りを仰せつかったり、岐阜大仏の造像に携わることになったものである。先人の功績をもっと周知したいものである。





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