死にたい、いっそ、死にたい、もう取返しがつかないんだ、どんな事をしても、何をしても、駄目になるだけなんだ、恥の上塗りをするだけなんだ、自転車で青葉の滝など、自分には望むべくも無いんだ、ただけがらわしい罪にあさましい罪が重なり、苦悩が増大し強烈になるだけなんだ、死にたい、死ななければならぬ、生きているのが罪の種なのだ、などと思いつめても、やっぱり、アパートと薬屋の間を半狂乱の姿で往復しているばかりなのでした。
いくら仕事をしても、薬の使用量もしたがってふえているので、薬代の借りがおそろしいほどの額にのぼり、奥さんは、自分の顔を見ると涙を浮かべ、自分も涙を流しました。
地獄。
(p129より)
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ものすごくなんともいえない苦しい読後感。
見事な筆致で、読む側を圧倒的に引き込みます。
今回は、人間失格です。
人間失格は、夏目漱石の『こころ』と並んで、文学作品のロングセラーの双璧となっているとのことですが、その理由、分かる気がします。
『こころ』は高校の現代文の教科書にも掲載されているので、なんとなくその延長で買ってみたというケースがあると思います。私も例外ではありません。
もちろん、こちらも傑作ではあるとは思いますが、最後の乃木将軍の殉死をきっかけに先生が命を絶つという、現代人には分かりにくいところで終わるのに対し、この『人間失格』の方は、現代人にも十分通じる心の闇や無常感を伝えている作品だと思いました。
わずか300円で、こんなにも人間の感情を揺さぶる作品を手に出来るとは、幸せなことです。
近く、映画化作品が公開される様ですが、読んでる最中は全然知らなかったので、なんともタイミングがいいです(笑)
とはいえ映画は恐らく見に行きませんけどね

失礼ながら、生田斗真が葉蔵だとは思えないし(伊勢谷友介の堀木はなんとなく分かる気がしますが)、そもそもこういった想像力を働かせて自分なりの物語を解釈していく文学作品を映画化すること自体あまり好ましいものではないと思います。
それだけ、この作品は、文字だけであっても十分に読者を引き込む力を持っている。
ほんのあらすじを紹介すると、
東北地方に生まれた主人公である葉蔵は、物心つくころには自分が人間生活に対して順応しきれないということを感じていました。そこで彼が採った行動は「道化」を演じるということ。
それは、大学時代に上京してからも変わらないのですが、堀木という悪友と知己になり、女・酒・煙草・左翼運動などを教えられることになり、彼の人生がここからより厭世的な方向へ。
その「道化」と本心のギャップは多くの女性を惹きつけ、葉蔵はある女性とは心中(彼だけは未遂に終わりますが)、ある女性とは同棲、さらに結婚(その相手によって信頼という今まで持てなかった気持ちを感じるのですが)を経験します。
しかし、ある事件をきっかけに、絶望のうちに葉蔵は生き続ける気力はないが、死ぬことも出来ないという「人間失格」状態におかれることになるのです。
では以下はネタバレ含むので、いやな方は見ないで下さい。

~1回目 2010.2.12~
太宰治の最後の完成された作品としても有名なこの作品。
その後も「グッド・バイ」を書いていることから(このタイトルも意味深ですが)、完全な自伝や遺書としては読みきれない部分もあるかと思います。
が、彼が葉蔵を通して書きたかった自分という存在も凝縮されている作品だと思いました。
まず最初に言っておきたいことは、父の存在という抑圧と、少年時代に女中に犯されたという幼児虐待的な体験。
これにより、葉蔵の性格が歪んでしまった(一般社会の望む性格という意味において)、ということは少なからずあるでしょう。
外国ではこの作品を幼児虐待的観点から扱う傾向もあるみたいなので、この指摘は的外れというわけでもないんだろうな。
さて、あらすじをもう少し詳しく語りながら、感想を書きたいと思います。
人間を極度に恐れながらも、愛されたいという思いゆえ、「道化」を演じてきた少年期の葉蔵を見抜いたのは同級生の竹一。
彼は葉蔵に
「惚れられるという予言と、偉い絵画きになるという予言」(p38)
を残します。
絵画きになるという予言は当たらずとも遠からず、しがない漫画家となるのですが、女に惚れられるという予言は当たり、葉蔵は意図していなくても女には困らないという生活を東京にて送ることになるのです。
東京では堀木という一人の青年から、女や煙草、酒、左翼運動を教わります。左翼運動や煙草はともかくとして、葉蔵は女と酒によりどんどん狂ったように落ちていくのです。
まあ、もともと生に執着しているという素振りはありませんでしたが…

まずはツネ子。
服役囚を旦那にもつ女ですが、生まれて初めて貧乏くさいこの女性に積極的な恋心を抱き、そして2人で心中を決め込みます。
しかし、死んだのはツネ子だけ。
葉蔵は助かり、自殺幇助に問われるも不起訴処分、しかし実家からはこの件で縁を切られたような状態になってしまいます。つまりこれ以降は金がいつもないという状態。
次に出会ったのは、シゲ子という幼子を持つ甲州生まれの女性、シヅ子。
この女性と幼女のくだり、凄くこの小説では重要な意味を持っている気がします。
シゲ子には「お父ちゃん」と呼ばれ、あたかも親子のような関係を持っていたものの(少なくとも葉蔵はそう思っていた)、シゲ子に不意に「本当のお父ちゃんがほしい」と言われてしまう。
それ以来、葉蔵は他の女性と同じようにおびえてしまうことになります。
そして、葉蔵が聞いた、シヅ子とシゲ子のなんでもない会話。
むしろ男であるなら微笑を浮かべ、愛情を感じるであろうその会話を聞いた葉蔵は、自分という馬鹿者が2人の間をめちゃくちゃにしてしまう、と思い込んで、その場を去り、それ以来彼女たちとの関係を絶つのです。
確かに、何をおびえる事があるのだろう


しかし、人間の「おびえ」は大なり小なりそういった、「言葉にできない思い込み」から始まっていることも真理であるように思えてしまいます。相手は全然おびえさせる意図はなかったとしても、本人は思い込んでしまうというケースってよくあるし。
もちろん葉蔵は極端ですが

さらに、ヨシ子。
この女性と葉蔵は結婚することになります。
「結婚して春になったら二人で自転車で青葉の滝を見に行こう」(p105)
と思えるような、読んでいるこちら側も「あぁ。葉蔵、いろいろあったけど良かったな。幸せになってほしいな」と素直に2人を祝福したくなる。
しかし、その愛も脆い。ほんの一瞬で絶望になってしまう。
ある時、ヨシ子が、出入のあった商人に犯されるのです。
もちろん、ヨシ子は喜んで受け入れたわけではありませんが、葉蔵は一切の期待や喜びを失い、恐怖が襲います。
怒りではなく恐怖。
ヨシ子が自分に抱いてくれていた無上の信頼を汚され、人を信じる能力がなくなった。
冒頭で紹介した本文は、この事件のあとのことです。
女のいないところを欲し、さらに酒に逃げ、挙句薬(モルヒネ)に逃げる。
なんという絶望。
もはや何ものからも逃げられず、かといって死ぬことも出来なくなった(いや、死ぬという気力さえ残っていないのだと思います)葉蔵は、堀木に連れられ、精神病院に送り込まれます。
そこで葉蔵が思ったこと。
自分は完全に人間でなくなってしまった、つまり
「人間、失格」(p132)
のち、病院を退院した葉蔵は、生まれ育った場所と程近いある地方でテツという女性と残りの余生を、ただ幸せでもない不幸でもない、まさに死ぬまでの「余」った時間を「生」きるということを続けていくのです。
これを読んで、葉蔵は人間失格に値する人間なのだろうかどうか、よく考えます。
答えは当然見つからず、むしろ葉蔵は私と何がどう違うのだろう?
もちろん、心中しようとか、人間に絶望を感じたり、薬や酒に逃げ溺れることはしませんし、思ったこともありません。
しかし、だからといって葉蔵とまったく違うとも思えません。
葉蔵は、人間社会のある種の欺瞞さに対してのセンサーが鋭かった、それゆえ一人で苦悩をしたのではないか、という気がするのです。
葉蔵の性格は生まれつきではなく、シゲ子やヨシ子を通して、なんらか人間社会に(不安は恐怖はまったくなくならないにしても)順応していく機会はあった。しかし、それを人間が崩していった。
そもそも、その性格を作り上げたのは故郷での体験(前述した抑圧と虐待)だと思うので。
そのことに対し、葉蔵は他人ではなく、むしろ自分を責め、自分の身を滅ぼしていった。
となると、一般人と狂人の境目とは一体なんなんだろう?という結論しかでません、今の私の頭では。
特に、現代という複雑怪奇な社会においては、ますますこの小説が、小説ではなく、かなりのリアリティを持って人間に(少なくとも私に)問い続けてくると感じました。
うーん、この本とは一生のお付き合いをする気がします。
総合評価:★★★★☆
読みやすさ:★★★★
キャラ:★★★★
読み返したい度:★★★★★