オリンピック | overhlanny11578のブログ

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コロナ禍のオリンピックだったけど、今年は、オリンピックをみて、「なにかスポーツをしたいな」

と思った。こんなふうに思えるのは初めてで、うれしくて、ヨガを始めた。

 

今まで、生まれてから記憶に残っている限り、オリンピックを見て何か感じたことはない。

おそらく私は、感情を殺していたんだと思う。オリンピックだけではなくて、その他もろもろに対しても。

おそらく今も。

 

子供のころの環境が原因だと思う。オリンピックと聞いて、思い出すことは、思いだしたくなくても思い出してしまうのは、6歳年上の姉の言葉だ。テレビでオリンピック関連のニュースが流れると毎回、毎回、姉の弘美はお決まりの言葉を言った。それは、「オリンピックに玲子だけ、おいて行かれたー!連れて行ってもらえなかったー」というものだった、毎回毎回、姉は飛び上がるようにして喜ぶようにして、この言葉を私に向かって言った。玲子というのは私の名前で、1964年の東京オリンピックの話だ。随分昔のことだけど今も苦しさが残って、苦しくて、気を紛らわす。

 

私の兄弟は6歳年上の姉と4歳年上の兄と私の3人兄弟だった。(縁を切っていて、もう何年も会っていないので過去形で書いている)

両親は、神奈川県小田原市で理美容器具の卸業をしていて、お店には一般のお客も買いに来ていたし二人とも忙しかった。日曜や夏休みには家族総出で出かけることもあったけど、父だけが遠くに出かけるときは姉と兄だけを連れて、玄関で泣く私には嘘をつき置き去りにして出かけることがよくあった。(前日までは、私も一緒の行くことになっていて、当日になると、突然父と姉と兄が走ってでかけていき、私は玄関で泣きだす。)ひどい話だが、父は全く気にしていなかった。

出かけて行った3人が旅行から帰宅すると、姉と兄が父に買ってもらったお土産を楽しそうに広げるのだが、それがまた私には悲しくて泣きそうになった。(当時の私は子供だから、冷めた目でみることもできず、ただ泣くのを我慢したのを覚えている。)私が泣きそうな顔になると、兄はお土産の話を終わりにするが、姉は違った。姉は私が泣きそうになると、嬉しそうな表情になり、さらに声を大きくした。姉の弘美、こいつは人前では私の世話をしたがるが、誰もみていないと意地悪な性格で、私が嫌がることを探しているようだったが、両親の前では態度が変わるので、両親はそれに気づいてくれることはなかった。今もそうだ。母親に話しても、信じてくれなかった。それ以来母の顔が見れなくなって連絡をとっていない。当時を知っている私の友達は、「なるほどね、つじつまがあった。」と言っていたのに。

 

そんなことが、いろいろあったから、冒頭に書いたオリンピックも、私は置き去りにされたのかと思っていたし、姉の弘美は、オリンピックと聞くたびに私をからかった。そんなだったから、オリンピックのニュースを見て「なにかスポーツしたいな」と思ったのは初めてでも仕方ない。周囲の人がオリンピックでワイワイ騒いているも以前はついていけなかったから、表面だけ合わせていたけど、それは疲れることだったから、人づきあいは縮小した。信用してくれる人とだけ付き合えばいいと思う。

 

6歳年上の意地悪な姉は、人前では「いい人」になる。今は精神病院を経営する家に嫁いで浜松で暮らしている。

精神的な意地悪を好んでしていた姉が精神病院に嫁いだのは、最高の喜劇だ。