『けもフレ2』は許しを乞う~『けものフレンズ2』は何がしたかったのかについて。 | ライブハウスの最後尾より

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どうも( ^_^)/

 

 

今も変わらず、クリフハンガーはいまいち乗れない者です。

 

 

 

 

このツイートの後、俺も何か書きますと約束してしまったので、その何かです。

 

 

 

TVアニメ『けものフレンズ2』を前作同様、毎週楽しみに観ています。

 

 

まぁ、このいわゆる二期に辿り着くまで、いろいろありましたし、何が起こってしまったのかについて、いくつか想像と予断を持てないこともないですが、それについてはまた来年あたりにまとめて書きましょう。

 

 

しかしながら、『けものフレンズ』というシリーズは、つくづく“現象”なのだなと思います。たった一つの作品にこれほどのアンダードッグ効果、バンドワゴン効果、ゲイン・ロス効果、エコーチェンバー効果が大波で次々と押し寄せたことがあったでしょうか。この時代、どんな映像作品にも、ある程度予め評価の幅というのは定まっているものですが、それを軽々と超えて、さらに沈み、反響し増幅し、さまざまな意味で大火事になっている。

 

 

物語の内容もさることながら、作り手や受け手のすべてを巻き込んで“現象”になっていく。こんなに面白い作品はありません。そんな中で、一つ二つ思ったことがあるのでクライマックスに差し掛かってきた今、書き残しておこうと思ったわけです。

 

 

なお、前作を少しは踏まえますが、あくまで『2』に限った話をします。それでも長くなりそうです。

 

 

 

・けものフレンズ2は、何がやりたかったのか

 

人によって、物語の楽しみ方はそれぞれだと思います。妄想屋の俺は「自分だったらこの話はこうするな」と考えながら観るのが好きです。

 

 

けもフレは特に色んなことができそうなコンテンツですから、冒険もの、バトルもの、ミステリー、ちょっとホラーチックなものにもできると思います。

 

 

そういう妄想を一通りやってから「さぁ、この作者(監督)は、何がしたくて、それをどう料理してくるのかな」と観始めます。

 

 

で、今作を三話くらい観てから、ちょっと違和感があった。何だか、やりたい(であろう)こととやっていることに齟齬があるような、でもその分からなさが楽しいような、不思議な気分でした。

 

 

・オーダーに対する脚本の面従腹背

 

齟齬の原因は、長く続くシリーズに、という思惑の制作陣と、今期で少なくともアニメの企画はクローズだと思っている作者(監督/脚本)の間に(本当に微妙な)意識の差があったのではないかと思いました。

 

 

ここで、俺がもし、あんな騒動になったけもフレ2の脚本を書けと言われたらどうするかを妄想します。良くいえばタフな、悪くいえば嫌な仕事になりそうです。

 

「こんなもん、売れるわけないじゃんか」「何やったってボコボコに批判/非難されるよ」

 

考えただけで憂鬱です。でもやるしかない。

 

 

なら、開き直って好きにやろう。ある程度、やりたいことの方向性は決まってるけど、その中で観る人の心に少しでも残るものにしよう。そう考えて、敢えて違和を出していったんじゃないかと推察しました。

 

 

記憶を失った人間の子供と思われる主人公キュルルが、荒廃した動物園『ジャパリパーク』を舞台に、サンドスターという不思議な鉱物の影響を受けヒト型の“フレンズ”になった“けもの”たちと、交流し、絆を深め、冒険し、“おうち”を目指す。

 

 

フレンズたちはヒト型であってヒトではないので、人間が持つ知恵や創意工夫はない。代わりに、動物だった頃の生態や身体能力を生かした活躍があり、同時に、力の無いキュルルはヒトとして、フレンズたちに絵をあげたり、遊び方を教えたり、そういった互いの足りない部分を補完し合い仲良くなっていく物語というのが、基本線だと思われます。

 

 

でも、そこには仕込まれた裏テーマがあるように感じました。一話のゲストキャラが、何故カルガモだったのか。

 

 

・人間が、動物に何をしてきたか

 

大事なことはほとんど一話に詰め込まれています。カルガモ、サーバル、カラカルが軽々と飛び越えられる地割れも、キュルルは結構大変だし、この世界の“捕食者”的立ち位置にいるセルリアンから逃げる足も遅い。代わりに、彼女は人として、ジャパリパークのモノレールを動かすことができる。

 

 

なるほど。ですが、ちょっと展開が冗長な感じもあった。カルガモの過保護さを笑うギャグ描写にしても、妙にのったりしてるなとも思いました。

 

 

ふと思いついたのが、これって実は、『けものフレンズ』の世界に対して暗に示す批判なのではないかということです。

 

 

フレンズに、生殖/繁殖能力は無い。動物にサンドスターが当たると、思考や会話ができるようになる代わりに動物としての能力を一つ失う。

 

 

母性の強いカルガモが、自分の子供を持つことはない。彼女は、常に一緒に引き連れて歩く“子供”を求めて、パークの荒野を彷徨い続ける。ひとたびその代替物を見つければ、喜々として大層過保護な案内役を買って出る。

 

 

少々悲観的に書き過ぎましたが、つまりそういうことでもあるわけです。

 

 

単なる遊びと即物的な報酬が結びつき過ぎたイルカとアシカは人間がやった調教の結果だろうし、ぺぱぷのライブなんて、最初に企画した奴の山っ気が匂い立ってくるし、そもそも、キュルルがモノレールのドアを開けられたのだって、「この動物園は人間のものです」ということでしょう。管理者、支配者、労使関係、言い方は何でもいいですが、人間とフレンズの間には、ある種の絶対的な力関係があります。

 

 

決定的なのが六話で、凶暴化したフレンズ(ビースト)を鎖につないで抑制しようとしていた人間の実態がさらりと明らかになります。

 

 

こういうのを、「人間の身勝手さ」とか「動物を飼育して隷属させる傲慢さ」とか、真っ正面から批判しないところはこの作品の良いところです。いや、『けもフレ2』の基本線は『フレンズと仲良く冒険するヒト』なので、できるわけもないんですが。

 

 

表「ジャパリパークというユートピアで、楽しくフレンズと遊びましょう」

裏「そうはいうけど、フレンズ化ってどうなの。犠牲になってるものもあるんじゃね?」

 

 

制作陣の要求に対する脚本の面従腹背ぶりがここで発揮されるわけです。けもフレ2という料理の前面には出ない、ピリッとしたスパイスが投げ込まれている。

 

 

あくまで個人的な勘繰りでしかありませんが、裏テーマとしてそういった「人間が動物に何をしてきたのか」を仕込む意欲は買いたいです。

 

 

・キュルルの役目

 

どうも、今一つ主人公力が足りないところがありますね。本人なりに頑張ってはいるんだけど、問題を明快に解決する能力はない。

 

 

これも、本作が持つ人間に対する冷徹な視線として観れば頷けます。

 

 

「“人間様”などとお高くとまってはいるが、所詮ヒトのできることなぞ紙相撲で遊ばせるのが関の山だぞ(さらに、そのつかの間の平穏は、ビーストの乱入であっさりと破られてしまう)。ずっと待っていた忠犬にもクリティカルな返答はできないぞ」

 

 

何度でも書きますが、作中でそんな手厳しい言葉が出ることはない。こういった描写は、「どうせこのアニメはこれで終わりだから」と勝手に判断した側の入れた香辛料ですから。

 

 

しかし、そういったままならなさを、十話ではかなり明確に入れてきました。キュルルの善意が、新たな敵を生み出してしまっていた、と。これも、表ではクライマックスに向けた“溜め”として機能させながら、裏ではヒトの文化/文明が動物たちを危機に陥らせているという隠喩になってくる。

 

 

ここまで考えると、CMのアイキャッチがナショナルジオグラフィックの映像なのも、何かのアイロニカルなメッセージを感じないでもありません。動物園(≒ジャパリパーク)という名の“檻と鎖”に囲われていない野生動物たちは随分と活き活きとしているじゃないか。これは少しうがち過ぎですが。

 

 

この後の展開の想像ですが、キュルルが海のセルリアンに囚われるかして、それを今まで出会ったフレンズたちが助けるというものになるのかと思われます。

 

 

多分、自分のやってしまったことに対してキュルルは謝罪するだろうし、サーバルたちはそれを許すのでしょう。

 

 

ですが、その謝罪は、実は『ヒトから動物に向けたもの』でもある。「どうか身勝手な我々を許してほしい。できることなら、今一度、この動物園(ジャパリパーク)で一緒に遊んで欲しい」という。

 

 

『けものフレンズ2』は、動物たちに許しを乞う物語。という深読みは、きっと許されるでしょう。最後まで、見届けます。