全貌は掴めずとも、得るものはたくさんあるはず~J.D.サリンジャー/フラニーとズーイ | ライブハウスの最後尾より

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どうも( ^_^)/

 

 

久しぶりに昼寝をした者です。

 

 

やはりシエスタの習慣は輸入すべきなのではないかと思います。頭がすっきりします。そして、その頭で読んでみた『フラニーとズーイ』は、また少々違った趣きで頭に入ってきました。

 

 

村上春樹さんの訳です。チャンドラーの『ロング・グッドバイ』を読んだ時も思ったのですが、この人の本は、自著より翻訳したもののほうが読みやすい。過去に途中で脱落したいくつかの作品も、海外のやつを再翻訳したものならスラスラ読めるやもしれません。

 

 

『フラニーとズーイ』は、サリンジャーの短編『バナナフィッシュにうってつけの日』から始まる、グラース家の七人兄弟を巡る長い長い物語の一篇で、末妹のフラニーとそのすぐ上の兄ズーイの、非常に文学的―――つまり非常に読み辛い言葉のやり取りが中心になった話です。

 

 

一つ設定を明かしておくと、グラース家の七人兄弟は誰もが早熟タイプの天才で、有名な子供向けクイズ番組に出場しているちょっとしたスター一家です。

 

 

大人になり俳優となったズーイは、自分たちを指して見世物小屋のフリークスであると自嘲します。ある種の“子役の悲哀”です。

 

 

ここで二つのことを思い出しました。一つはウィリアム・ジェイムズ・サイディズ。IQが300あったともいわれる度を超えた神童で、11歳でハーバード大学に入るものの、残した功績はいまいちという人物です。

 

 

もう一つがアニメ映画『怪盗グルーのミニオン大脱走』の敵バルタザール・ブラットで、邦題が随分なミニオン推しだったので油断していましたが、まさに元子役スターの悲哀を「もうやめてくれよ」ってくらい表現してくるキャラクターでした。

 

 

なぜこういうことが起こるのか。この凡夫の頭脳からは、頭と体と心の成長のバランスがバラバラな状態で成長してしまったからではないか、みたいな、ありきたりでつまらない仮説しか引き出せないわけですが、とにかく、この小説のフラニーも、同じような感じで思考のドツボにはまってしまうわけです。

 

 

引用してみましょう。

 

 

私はただ、溢れまくっているエゴにうんざりしているだけ。私自身のエゴに、みんなのエゴに。どこかに到達したい、何か立派なことを成し遂げたい、興味深い人間になりたい、そんなことを考えている人々に、私は辟易としているの。そういうのって私にはもう我慢できない。実に、実に。誰が何を言おうと、そんなのどうでもいいのよ」

 

 

さらに引用しましょう。彼女が演劇をやめてしまったことについてです。

 

 

「私は人と競争することを怖がっているわけじゃない。まったく逆のことなの。それが分からないの?私は自分が競争心を抱くことを恐れているの。(中略)

私は周りの人たちの価値観を受け入れるように、ものすごくしっかり躾けられてきたから、そしてまた私は喝采を浴びるのが好きで、人々に褒めちぎられるのが好きだからってそれでいいってことにはならないのよ。そういうのが恥ずかしい。そういうのが耐えられない。自分をまったくの無名にしてしまえる勇気を持ち合わせていないことに、うんざりしてしまうのよ。なにかしら人目を惹くことをしたいと望んでいる私自身や、あるいはほかのみんなに、とにかくうんざりしてしまうの」

 

 

天才ならぬ我々にも、おぼろげながら輪郭は掴める話ではないでしょうか。特に『自分をまったくの無名にしてしまえる勇気を持ち合わせていない』なんてのは、俺がもう十年若くて、その将来に対して少々うぬぼれる程度に何らかの才能を持ちあわせていたら、会心の一撃になっていたかもしれない一文です。

 

 

『夜と霧』を読んだ時も思いましたが、出来の良い本というのは、ついつい引用が増えてしまいます。あまりにも引用すべき箇所が多すぎて『夜と霧』については一行も書けなかった有様です。

 

 

フラニーに関して「こう言う子かな」と察しがついて興味が湧いたら、一気に読んでしまうことをお勧めします。変に比喩や修辞に立ち止まったりせず、とりあえず駆け抜けるように読み切って、それからまた読み返すといいでしょう。

 

 

そのときに残ったものが、きっとその後も続く人生で大切になってくると思います。