なぜ“キングギドラ”ではないのか~静野孔文 瀬下寛之/GODZILLA 星を喰う者 | ライブハウスの最後尾より

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どうも( ^_^)/

 

 

ハリウッド版のラドンのカッコ良さに心惹かれている者です。

 

 

GODZILLA/星を喰う者

 

 

 

 

 

 

出演を願ったキングシーサーは旧沖縄でメガロとの壮絶な一騎打ちの末、相討ちとなったそうで、ならばと人間側の怪獣として登場を予感していたモスラを崇める新地球人類フツアと、超常的な“神”としてキングギドラを崇めるエクシフの姿が描かれたところで、二部は終わりました。

 

 

科学の信奉者たるビルサルドとのメカゴジラシティでの共闘と決裂をハードに描き、ミアナとハルオとの親密ぶりに焦ってヒロインの座を狙いに行ったユウコを半狂乱で泣き叫ばせた後、無惨な脳死状態に追い込む虚淵さんの相変わらずな書きっぷりも冴え渡り、いよいよ完結です。

 

 

なぜ今作でのキングギドラが、間違いなくキングギドラの造形をしているのにしつこく“ギドラ”と呼ばれるのか、これには理由が二つあると推察しています。

 

 

まず一つ目が、アニメ版ゴジラにおける“ギドラ”がエクシフという地球外人類の言葉だということ。

 

 

日本語でも英語でもフランス語でもスペイン語でもないエクシフ語であるところの“ギドラ”に英語から“キング(王)”の語を持ってくると、SF的な整合性が取れなくなる、ということです。

 

 

もう一つが、本作の構造的に、“怪獣VS怪獣”という構図を描かないことを徹底しているということ。

 

 

かれこれ半世紀も前、金星を三日で滅ぼしたという盛大な設定と共に地球へと来襲したものの、その後はあちらこちらの宇宙人や毒電波に洗脳され操られ、時には8体の地球怪獣に袋叩きにされるなどして逃げ帰るという看板にそぐわない扱いを受けてきたキングギドラですが、今回は高次元より現れ肉眼以外の観測が不可能、つまりまともに戦うことも触れることもできないというまさに『星を喰う者』のサブタイトルにふさわしい無類の強さを見せます。

 

 

そんな反則怪獣を倒すための手段はただ一つ「こちらの次元に干渉すべくギドラの目となり耳となっている別の観測者を破壊すること」です。特撮的思考で説明すると、要するに「コントロールルームの破壊」です。

 

 

「結局また操られてるのかよ!!」とお思いでしょうが、少し事情が違うので実際に観て確かめてください。

 

 

この映画で倒すべきは怪獣であるキングギドラではなく、ギドラ。王に傅(かしず)く、滅亡と死に酔った者のことです。

 

 

ゴジラは、星の文明が隆盛と退廃の極みに達し、自然が冒涜され蹂躙され尽くした先に現れる天災のような怪獣で、星を侵した人類を滅ぼす、破壊者です。いわば星の免疫システムの一部だといえます。人間が花粉で地球が保菌者、免疫機能が怪獣でそれが行き過ぎた花粉症の正体がゴジラ。鼻水やくしゃみの代わりにビームが出て、何でも破壊してしまう。ステロイドにあたる核も効かない。そういうわけです。

 

 

じゃあギドラは?と、先ほどからずっと考えているのですが、正直こいつが出張る必要性をあまり感じません。今回のキングギドラ操縦室の役割を担っていた人物はいろいろと理屈を語っていましたが、個人的には「数億年越しの滅亡?そんなものはほっとけ」としか思いませんでした。

 

 

何を己の寿命の届かない世界の話で絶望しておるのだ、と。頭の良い人間というのはこれだから、と斜め下から低みの見物です。

 

 

我々が怪獣を好きなのは、容赦のない破壊に魅力や快楽を見出すからだと思っています。300mの東京タワーをブチ折るのは爽快だし、ガメラが東京を焼け野原にするシーンは胸が高鳴る。現実でもビルの爆破解体や発破の動画は高い人気を得ています。

 

 

そこで後ろめたさを感じたり、小難しい規範精神を発揮する必要はないと思うのです。いろいろと人の手には余る事態なのだから、破壊の快楽に浴していればそれでいいのではないか、そう思うのです。

 

 

とはいえ、重厚なSFとして面白く観られた三部作でした。ゴジラというコンテンツの懐の深さを感じましたし、この野心的な内容にゴーサインを出した東宝は『シン・ゴジラ』に続いて良い仕事をしたと思います。

 

 

しかしながら、そろそろ昔懐かしの怪獣プロレス的な映画を観てみたい欲求も出てきました。よろしくお願いしますよ。