そのクジラは「一人は嫌だ」と歌ったのだろうか~それでも世界が続くなら/52Hzの鯨 | ライブハウスの最後尾より

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邦楽ロックをライブハウスの最後尾から見つめていきます。個人的な創作物の発表も行っていきます。

どうも( ^_^)/


ボイジャーのゴールデンレコードに収録されたザトウクジラの歌を聴いてみたい者です。


きっといつか宇宙人が返しに来てくれるはず。コミュニケーションの練習もしなければいけません。


俺たちも、歌で会話しよう。


それでも世界が続くなら/52Hzの鯨






アルバムだと、それでも世界が続くなら~に続く文章のようなタイトルになるのが定番でしたが、今回は名詞です。


52Hzの鯨とは、ほかのクジラとはコミュニケーションできない、特殊な周波数で鳴くクジラのことで、世界で最も孤独なクジラと言われています。


ちなみに、一部のクジラは“歌”によって交信することが知られており、そんなところも、バンドのイメージに合ったのではないでしょうか。


そんな“52ヘルツの歌”を受け取りました。


01.弱者の行進


ミニマルなギターのフレーズから、ファットで、どこか童謡チックなバンドの音がやってきます。弱者の行進の始まりです。





生きていくのに正しいも間違いもないのは承知の上で、でも、まるでそれがあるかのように人が言うから、道理に合わないことに対する疑問ばかりが膨れ上がっていく。


知らぬ間に内面化されてしまった正しさに囚われるくらいなら、いっそ0点でもいいから、解答用紙に「ごちゃごちゃうるせー」と書き込んでしまえればよかったか。それは分かりませんが、ただ今目の前にいる人に向かって、それでも世界が続くならは語りかける。「ちょっと話そうぜ」と。


02.狐と葡萄


行進を終えたバンドはメロディアスなギターに導かれて次の対話へ、交信は続く。





守りたかったものは守れず、なりたかった人間にもなれず、人生に大きな黒星を残したまま、すべて諦めきることも叶わずに、いわば撤退戦のような生を続けている人に届く歌です。


食べられなかった酸っぱい葡萄の味は、苦い。



今日も敗北を抱えて生きるすべての魂へ~それでも世界が続くなら/狐と葡萄


03.ベッドルームのすべて


全編で、怪獣が威嚇の唸り声を上げているかのような轟音がずっと響いていて、グッドメロディな8ビートに規格外の迫力を出しています。


「寝てるうちに死ねたら一番いい」というのは、およそ死について考えたことのある誰もが思い至ることでしょう。


明日が、昨日と同じだった今日の焼き直しだということが、ほとんど決まっていて、そんな「もう全部どうでもいい」に支配されているから、変わるものも変わりようがなくて、布団に潜り込んだ自分は笑っちゃうくらい死なないままで、今夜も、長い長い苦悩を始めてしまう。


そういった行き場も帰り場所もない孤独な叫びが歌われていますが、最初に書いたようにメロディがすごく良くてカッコいいロックソングなので、まずは細かいことを考えずに聴いて欲しいです。無理かもしれませんが。


04.11月10日


篠さんて、歌が上手くなりましたよね。


特段上手い必要のないバンドだったから、きっと誰もそのことに言及してこなかったのだと思うのですが、ここらではっきりさせておきたいです。曲のカラーに合わせて色んな声が出せるようになって、歌の表現力は格段の進歩が見えます。


最初は軽く、サラッとした歌声が、曲のテンションに合わせてどんどん粘り気を帯びていって、号泣一歩手前の絶唱へと終焉していく。この抑揚の付け方なんか、見事だと思うんです。


シンセサイザーのようなリバーブを効かせたギターサウンドを使いこなすようになったバンドが到達したといってもいいミディアムロックバラードです。


誰も間違っていない世界で、誰にだって優しくしようと間違えてしまった人への、11月10日付の手紙。



05.着衣の王様


裸の王様にだって矜持があったと思うんです。


民を導く王様が馬鹿ではいけない。だから、バカには見えない服も見えていなければならない。挙句の果てに子供にバカにされる。


真顔で、真面目に、大マジにやっていることを笑われることほど辛いことはありません。


それで泣いたり怒ったりできれば、まだいいようなものを、笑っている奴と一緒になって自分を笑ったりしちゃって、誰よりも自らの足で踏みつけにしてしまったら、もう立ち直れない。


誰かが笑った自分を笑うなよ、そんなメッセージを感じました。


06.最終回


今日まで好かれたことのない人が、明日から好かれるはずもなく、募る気持ちは「何で自分だけが特別好かれる努力なんてものをしなければならないのか」ということで、すっかり心は拗ねてしまっているけど、隣の席では、今日も楽しそうに人々が笑い合っている。


得たものより失くしたものの方が多ければそっちにばかり気を取られるし、欲しいものは絶対に手に入らないと分かっているから、要らない理由とすり替える。


そうやってきた人生の最終回で「いいからなんか話そうぜ」という声が聞こえてきた。この音楽とだったら、欲しいと言えるだろうか、嫌だって言えるだろうか。


07.誰も知らない


我々は、不平等ではあるけれど、等しく死にながら生きています。生きていくことは、死んでいくことと同義です。


そんな当たり前の事実に底泥せねばならないのは不幸です。普通の人は「生きたい」「死にたい」なんて考えなくても毎日笑って楽しく生きられる。


しかし、俺たちはボッキリ折れた両足でも、歩くことを決めてしまったのだ。一歩進むごとに悲鳴を上げる、心臓が続くことが、自分の命と心を削っていく。死ぬまで終わらない死んだような人生。これをなんと呼ぶかは人それぞれですが、俺は地獄だと思います。


この曲は人生のブルースですが、哀愁はありません。バンドアンサンブルのテンションは、常に高く、高揚感すら感じます。


どちらかというと、ジャズに近い。悲しいことでもアッパーに鳴らしてしまう音の力です。それ以上に、やはり、パンクでしょうか。「まだ生きてるぞクソッタレ!」です。誰も知らないなら知らないまま知らしめてやろうという、叫び声です。


08.死なない僕への手紙


こうありたいと思うのは自由だし、こうでなければいけない、という頑固さも美点になり得ますが、問題なのは、両方とも、知らず知らずのうちに、ほかの誰かから押し付けられた思想の可能性があることです。


この国に生きる人間は大体十代の前半ごろから二十代の前半辺りまで、その『自分の在り方』について自問自答と取捨選択を繰り返していくわけですが、世間的なマスト事項と個人的なそれが食い違い過ぎてしまっている人は、そこで精神的に大きなダメージを受けてしまう。


愛される“べき”なのに愛されなかった人、愛する“べき”なのに愛せない人、友達はいる“べき”なのに誰とも仲良くできない人、優しくある“べき”なのに嫌われる人。


そういう人間に手を差し伸べる歌は、少ない。嫌いなままでいいよ、なんて、ポップミュージックの文脈の中ではなかなか言えない。そこを許容してこその音楽だろうと思っても、できない人が多いなら、自分でやるしかない。


みたいなことを雑誌で語っていて、この曲にその想いが集約されていると思いました。



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