二つの視点~機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer- | ライブハウスの最後尾より

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どうも( ^_^)/


ここ数年で急にガンダム熱が上がっている者です。


劇場版
 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-







・あらすじ

大いなる力を持ったモビルスーツガンダムを駆り、武力による戦争・紛争根絶を掲げる私設武装組織ソレスタルビーイング(以下CBと略称)は三つの陣営に分断されていた世界の統合を促すが、恒久平和を求める急進的な者たちの台頭も招いた。

民主的な手続きを一切無視し武力的な弾圧も辞さない独立治安維持部隊アロウズと、その裏で暗躍する黒幕、リボンズ・アルマークと戦う過程で、人類を超えた種族“イノベイター”として覚醒したCBのガンダムマイスター刹那・F・セイエイは、リボンズを打倒した二年後も、再び緩やかな統合を果たしつつある世界の中で戦い続けていた。

西暦2314年、地球に向かって、約130年前に木星に向かい消息を絶った探査船エウロパが接近してくる。これを破壊した連邦軍だったが、地表に飛来したエウロパの破片―――謎の金属生命体が、イノベイターの素養を持った人類を攻撃する事件が頻発。地球は、惑星外生物からの攻撃に緊張を高めていく...



・二つの視点で観る『劇場版ガンダム00』


さて、このあらすじと、4クールに渡って放映されたTVシリーズも踏まえて二つの視点からこの映画を観てみることにします。



視点①ライルの“帰る場所”はどこにある?


TVシリーズ一期のハイライトは、CBの真実に近付きすぎた絹江・クロスロードが“戦争屋”アリー・アル・サーシェスに殺害されるところであると個人的に思っています。


時を同じくして、弟の沙慈・クロスロードの恋人ルイスが親戚を含めた肉親の全てと片手を失う重傷を負い、自分を傷つけたガンダムへの復讐を誓い、連邦の正規軍に入ります。


沙慈の方はというと、絶望する恋人の前からあっさりいなくなり、同じく正義感の強さ故に命を落としたジャーナリストだった父と姉の遺志を継いで真実を求めることもありません。あくまで力ない一介の弱く甘ったれた市民の一人として生きていく。できることなど何も無いのだから当たり前とはいえ、アニメ作品としては相当リアルな描写だと思いました。


その後沙慈は、ちょっとした行き違いからCBの船に乗せられ、自分が助かりたいが為に取った行動で多くの人を死なせるという大失態を犯してしまいます。


「自分には関係ない」「自分は戦いたくなんかない」という沙慈を、CBのティエリアは「そうした無関心と事なかれ主義が悲劇を起こした」と厳しく叱責する。それでも沙慈は戦いに向かうことができない、戦場で、敵を前にして引き金を引くことができない。


およそ戦争をテーマにしたガンダムの世界で人間的な情や甘さを捨てられない沙慈のキャラとメンタリティは失格であり落伍者そのものです。それでも彼はこの物語に絶対に必要だった。


何故なら、彼には『行きがかり上復讐のため戦うことになってしまったルイスを迎えに行く』という役目があるからです。

同じような役柄は、刹那と心を通わせつつも戦うことを頑として跳ね付ける中東の王女マリナ・イスマイールにも見ることができます。


こうしてみると、『00』の登場人物の多くが、この『前線で戦う者と戦わざる者』との組み合わせにできます。


沙慈とルイス、刹那とマリナ、ニール(初代ロックオン)とフェルト、アレルヤとマリー(これは微妙ですが、実際に戦っていたのは別人格ということで)、ティエリアとミレイナ。


なぜこうなっているのかは制作者の心の内を知り得ぬこちらからは何もわかりませんが、ヒントとなるかもしれない小田嶋隆さんのコラムがありましたので紹介します。


お花畑は沈黙すべきか


兵士といえども人間です。平和な場所を知らずに戦い続ければ人格の全てが戦場のルールに染まり、人間的な感情が壊れてしまう(その、“壊れた人間”の象徴がサーシェスといえます)。人には“花畑”が必要なのです。


さて、その中で一人、仲間はずれがいます。そう、ライル・ディランディ。彼にもアニューというパートナーがいたのですが、TVシリーズ内で戦死してしまいました。彼の帰るべき花畑はどこにあるのだろうか。


それは、戦う道を選んだ刹那と戦わない道を選んだマリナが迎えたラストシーンに全てが詰まっています


この映画の軸は、地球外からくる来訪者との“対話”です。と、いっても、『未知との遭遇』や『E.T.』、同じくロボットの出てくるアニメ作品でいえば『蒼星のガルガンティア』のような友好的で牧歌的なものではなく、もうちょっとハードです。金属生命体ELSが人間を飲み込んでいくところなどから『蒼穹のファフナー』に近いと思われます。


地球人同士ですら強硬策か融和策かで議論が紛糾するというのに、地球外からくるディスコミュニケーションな生命体との“対話”なんてままなるのか。『来るべき対話』と幾度も語られますが、人類にはまだ早すぎるのではないか


こうして、敢えて予定を思い切り早めたのも、一つの戦争を終えた後に訪れた平和な世界をCBや多くの“戦う者たち”に味あわせたいと思った製作者の粋な計らいではないかと、そう考えています。


ライルの帰る場所は、はっきりとは明示されませんでしたが、「世界が平和である限り、それはどこにでもあるのだ」とこの映画は教えてくれました。


視点②UVERworldが『00』に送った三つの楽曲


邦楽ロックへの敬愛を捧げる当ブログらしく、主題歌となったUVERworldの楽曲に迫ってみます。


TVシリーズも含めた『00』に対し、ウーバーは三つの楽曲を送り、それぞれの曲を収録した三枚のアルバムを完成させています。バンドの曲とアルバム作品の両方に注目しつつ追っていきます。


まず、TVシリーズ第二期のOPを飾った“儚くも永久のカナシ”。UVERworld史上初のオリコンウィークリーチャート初登場一位を記録した記念すべきシングルであり、非常にシリアスなメッセージ性を持った“愛の歌”でもあります。





≪愛が愛を「重すぎる」って理解を拒み≫≪約束したはずの二人さえ気付かず通り過ぎていく≫という歌い出しの雰囲気のまま、ハーピーエンドには向かわない重いストーリーの歌詞です。アニメのスタッフとの会議をして完成させた曲らしく、すれ違いを繰り返すが故の悲劇を繰り返してしまう『00』のストーリーにもとても合っています。


そんな“儚くも永久のカナシ”が収録されたアルバムが『AwakEVE』なのはまったくの偶然ですが、UVERworld もまた、『00』の主人公刹那のように“革新”へと向かって行きました。具体的に書くと、あまりタイアップやセールスを気にしなくなり、我が道を進むようになっていったのです。


次に、劇場公開前にイメージソングとして放たれた楽曲“CHANGE”があります。≪愛を殺したのは僕なんだ≫と懺悔する少年(かどうかは分かりませんが俺はそういうイメージで聴きました)に向かって≪「やっと人らしくなれたね」≫と告げる歌。


≪邪気無き光/今キラキラに光る目≫といった歌詞から、刹那のことを歌っているようにも思えますし、『愛に怯えつつも手を伸ばしていく』という歌全体から感じるイメージが劇場版に向かう良い導線になっていると思います。


このウーバーとしては珍しいほどストレートなロックチューンは、歌詞や曲の展開に、より自由度の増したアルバム『LAST』に収録されていて、俺はこのアルバムが本当に大好きです。





そして、愛が憎しみに変わってしまうと苦しんだ時を作品が超えると同時にセールスに囚われ過ぎない自由な活動を始め、愛を殺してしまったと嘆く時を超えると同時に既存の技法に囚われ過ぎない自由な創作活動を始め、作品とともに革新へと向かったバンドは、≪綺麗に着飾るための言葉そんなものに意味は無い必要ない捨てろよ≫と、ただひたすらに誰かを愛することを高らかに歌い上げる“クオリア”と、『LAST』で手にした自由な歌詞表現をさらに深化させた名作アルバム『LIFE 6 SENSE』に収録されています。


『00』の描きたかったメッセージはこの全てを解き放ち祝福するこの歌に集約されるんだなと思ったし、その後、東京ドーム公演の成功させたウーバーのバンドストーリーも素晴らしいと思いました。

結構今更なこの映画について書きたかったのも、実は今のUVERworldというバンドのサクセスストーリーの一つにこの作品があるからなのだと思ったからです。