苦痛なく死ねる方法は、“無い” だから、こうしよう。 | 2026.1/1 19:52~
どうも( ^_^)/


風邪をひいている者です。


毎年、この12月ごろは風邪をひくことになっていて、その症状も、発熱するほどではない喉の痛み、鼻詰まり、身体の痛み、頭痛などが一週間以上続くという鬱陶しいものだと相場が決まっています。


そうして毎年、呼吸が苦しい故に慢性的に睡眠不足に陥り、趣味である音楽もなかなか手に付かないという事態に陥って、改めて健康というもののありがたさをかみしめるという次第なわけです。年の瀬の行事みたいなものです。


この痛みも苦しみも、いつかは終わるものだと分かっているから我慢ができるのですが、もしそれが生きている限り終わらないようなものだとしたらどうでしょう。


恐らくどんな人間も際限のない苦痛の中では「死にたい」と思うのではないでしょうか。


以前、とあるツイートが、異常にお気に入りとリツイートを貰いました。


自殺しようなんて思ったことがない人に向けて書いておきますと、「死にたい」という意思表明は、『この原因不明なよく分からない辛さ、苦しさ、虚しさを何とかするにはもう死ぬくらいしか方法がなさそうだから死にたい』を略したものである場合がほとんどですので留意頂きますようお願いいたします。


最近、毎週日曜の夜に自殺に関するツイートをするようにしていて、その一環で呟いた言葉です。個人的にもなかなか的を射ていると思っています。


生きていることが辛い。

毎日起きて、学校や会社やその他行かなければならないところに行って、帰って来て、眠る。そうした日々のルーティンを過ごすだけでエネルギーを削られ、疲弊していく人が存在します。

そういう人というのは、何もしていないのに誰かから嫌われ、疎まれ、人の輪から弾かれてしまっている。大抵、その原因は、外見の些末な違いや、話し方や雰囲気といった、一朝一夕の努力では改善のしようがないものであったり、そもそもあるべき個性の範疇に収まる程度のことだったりします。


誰も、産まれた瞬間は泣くことしか知らない赤子です。嬉しい、苦しい、楽しい、辛い、といった感覚は、人生を歩むうちに育んでいくものです。


「産まれたい」と思って産まれてくる人などおらず、故に「産まれてこなければ良かった」と思う人が出てきてもおかしくはない。全てはどう生きたかで決まります。そして、全ての人は、どう生きるかを自分の意志だけで選ぶことはできない。


“私”を意識するのは、“他人”という存在があってこそです。


親、兄弟姉妹、友人、親戚、先生、同僚、上司、知人。そういった“他人”との、操作できない巡り合わせが、その人を形作ります。その結果として、産まれてきて良かった、と思えたのなら興奮なのですが。


保育園でいきなり「デブ」とバカにされた。砂を食わされた。保育士に訳も分からず叩かれた。小学校で、知らないうちに一人ぼっちになっていた。授業で何かを発表するためにクスクスと笑われた。また訳も分からず同級生に殴られた。やり返すとその場は収まったが、他人が怖くなった。中学では、いよいよ学校に通えなくなった。世界の全てが敵になった気がした。


そういった体験が積み重なっていく人は、恐らくどこにでもいます。巡り合わせが悪かった、としかいいようのない不幸を前に、人生の理不尽を隣人に、絶え間ない鈍痛の如き絶望を友人に、それでも我慢して生きている人がいます。


愛情より無関心を、抱擁より暴力を、称賛より罵倒を、好意より嫌悪を多く受け取る人生となってしまったとき、人は生きていることが辛くなる。


我慢して、耐え忍んで生きてきた人に訪れる休日。ほっと息を吐き、落ち着いてこれからの人生を見渡した時、見ないようにしていた大きな虚無感と絶望が襲ってくる。


一生、“これ”が続くのか、と。寿命が訪れるその日まで、この辛い“生”を続けなければならないのか。


そう思った瞬間、生きているだけで負荷を加え続けられてきた緊張の糸は切れる。


一か月前のニュースを思い出した。ある女性タレントの自殺報道。自宅のドアノブにロープをかけ、窒息死したのだという。


そうか、十分な高さが無くとも、人はドアノブで死ねるのか。その思いに行き当たった瞬間、急に六畳間のドアノブが天国への片道切符として輝きを放ち出す。そうか、これで死ねるのか。そう思ってしまうと、もうドアノブから目が離せなくなる。甘美な死への誘惑が文字通り死に体の心身に異常な活力を与える。


丈夫なロープは無いけれど、ベルトが見つかった。これを輪にして括れば、頸動脈は圧迫され、今際のその時まで千切れずにいてくれるのではないか。


七つ目の穴に金具を通すと、ちょうど首とドアノブがすっぽりと入り、長座の体勢を取ると少し腰が浮くことが分かった。これなら、きっと死ねる。これでもう、全部終わるのだ。



―――と、ここまでは、少し現実的な妄想の寓話だと思ってください。ちょっとしたフィクションです。


ここに出てくる“彼”(もしくは彼女)は死ねるのでしょうか。分かりませんが、俺はなかなか難しいのではないかと思っています。


“生きるという苦しみ”から逃れようとしているのに、さらに自分の首を絞めるという“死に向かう苦しみ”を自身に加えられるのかどうか。


苦痛の無い死に方があれば、と思っても、そんな情報はどこを探しても出てきません。何しろ死んでしまっていますから。


人間の生存本能というのはよくできていると思います。苦痛からは可能な限り逃れようとする機能がある。自分から奈落の底に飛び込むには相当な勇気と思い切りがいることになっている。


文字通り決死の覚悟で自殺を決行したその結果として痛みもなく死ねたらいいのですが、中途半端に死ねない苦しみと辛さだけを抱えた人たちも数多くいます。そういう人たちの声ばかりが残る。


失敗者が変わらぬ苦しみの慟哭を上げながら生き残り、成功者が声も無く死んでいく。本当に、腹が立つほどよくできている。


人間は、自分自身の命を守るために苦しみや痛みを感じて、そこから逃れようとするようにされている。しかし、生きていることそのものが苦痛をもたらしている限りにおいて、その生存戦略はその人を真綿で首を絞めるように殺していく。


これに、どう対処すればいいのだろう。


俺がただいま罹患しているへなちょこな風邪とは違います。ある意味ではインフルエンザより厄介で、明確な治療法も、薬も見つかっていない“病”の話です。どうすればいいのか、まるで見当もつきません。


ですので、ここは、先人の知恵を借りることにしましょう。


古来より人は、解決方法の分からない問題に対して『とりあえず棚上げ』や『適当にお茶を濁す』という国家間の領土問題に相対するみたいな仕草で『先送り』という手段を取ってきました。ここでも、そうした竹島メソッドを採用することに致しましょう。


「死にたい」と知人が言ってきたら「よし、分かった。じゃあ一緒にゲームでもしようか」と返す。


「死にたい」と思ったら、意識を飛ばせばいいので寝るように努力する。具体的には何か温かいものを腹に入れる(ホットミルクがお勧め)。眠くなる薬があったら迷わず飲む。何か食べるのも良い。その他、ゲーム、漫画、小説、音楽、気を紛らわせるものを用意すること。ネットはあまりお勧めしません。要らない情報が入ってきて余計死にたくなるかもしれません。ネットゲームなら良いです。


そうして、いつか死ぬことを考えられないほど眠くなって、朝になって、また新しい緊張と我慢と忍耐の一週間が始まったとき、奇跡のような巡り合わせが起これば―――なんてことは、あまりにも碌でもない考え方です。