2013.10/22 名もなき猫の死を思い過ごした午前。雨の降りそうで降らない午後。 | ライブハウスの最後尾より

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邦楽ロックをライブハウスの最後尾から見つめていきます。個人的な創作物の発表も行っていきます。

どうも( ^_^)/

最近、特に朝出かける時間に妙な妨害を受ける者です


自転車のチェーンが外れたり正体不明の頭痛が襲ってきたり

そして今日です




―――最初は、毛布でも落ちているのかと思った。

閉店して何年にもなるコンビニの脇。車道と歩道の境。

割と遠目からでも、それがぐったりと横たわる猫だと気付いたのは、昨夜、此処とは違う場所で同じような尻尾の短い雑種を見かけたからだった。

俺は自転車を降りると、それをじっと見る。死んでいた。目立った外傷はないようだが眠ったように閉じた目は開かず、冷たくなっている。

暫くの間それを見つめ、また自転車に跨る。行きたくはないが、行かなくてはならないところがあり、時間が無かった。

小さな猫の死骸を置いて、俺は自転車を再び漕ぎ出す。


午前中は、ずっと死を考えていた。

祖父の死に目に立ち会った時を思い出す。老衰で、今まさに命の灯が消えていく祖父の首筋に手を当てながら、呼吸がゆっくりと止まり、脈拍が遠くなっていくのを片時も離れず見続けていた。

恐さはなかったし、寂しさも哀しみもなかった。ただ生命の営みが、その役目を終えていく瞬間を見届けたかった。

19歳の3月9日のことだった。

死はとても安らかで、静かだ。どんな動物も騒々しい生を経て死に向かう。死について考えることは、とても心の落ち着く時間だった。

この国で、死に出逢うのは稀だ。日常に死がないことは幸せなことなのだろうが、ある日突然非日常に叩き落されてしまうのは不幸だと思った。

だからこうして“死を思う”のは有意義な時間だとおもう。日常に於いて死はタブー視されるが、死ぬことは100%やってくる。日常の片隅に“死”を置いておくのだ。そうすればいざその時が来ても穏やかに受け入れられる気がする。

透明な水の入った水槽に身を浸してるような、心地よく沈んだ気分で午前を過ごした後、昼間に再びコンビニの空き店舗に向かった。


とっくに業者が回収しているだろうということは想像できても、軍手と新聞紙を携えて行った。

子供のころ、家の近所で死んでいる虫や鳥の死骸を庭に埋めて墓を作っていた。俺は、ずっと死から目を逸らさなかった。祖父の時も、7歳の時、曾祖母が火葬場で骨になった時も、どんな死でも最後まで見つめてきた。

見て見ぬ振りをしない。そういうことではない。『死を思う自分』を見失いたくないだけ。いつか必ず自分にも訪れることから心を離したくなかった。

もう猫はいなかった。俺は無駄になった“葬儀道具”一式を持って帰った。


空は早朝からずっと曇っていた。いっそ雨でも降ってくれればいいのにと思ったが、恨めしく顔を出す太陽が雨粒を落とすことを拒んでいた。









本当はスガシカオさんの『ネコさん』という曲を貼りたかったのですが、無かったのでこの曲で 笑