こんばんは。
京都をベースにしています心理セラピストの杉原京子です。
すっかりご無沙汰しております。
気づけば、GW真っ只中。
ということで、どこに行っても人、人、人。
ここ京都では、ほんとに大勢であふれかえってます。
普段なら、海外の観光客の方々が多いのですが、
GW中とあって、日本人の観光客の方々も、たくさんいらっしゃいます。
ほんとに賑やかなことです。
長い人は、9連休。
とっても長~いですね。
ゆっくりと京都滞在をしていただいて、少しでも京都の魅力を堪能してもらえたら嬉しいなって思います。
さてさて、今日は「自信」について書きます。
よくよく耳にすることはありませんか?
「私、自信がないんです」
この言葉をよ~く噛み砕いて聞いてみると
「私の判断しようとしている内容に自信がないんです」
↓
「自分の判断が正しいのかどうか自信がないんです」
↓
「そもそも、私の考えが正しいのかどうか自信がないんです」
これを読んでみてどう思いますか?
そうなんです。
これって正しい答えを探していて、自分の考えがその正しい答えにあっているかどうか不安なんですね。
まるで、○×テストのように、正解か間違っているかをず~っと他人に探し求め続ける。
そして、誰かから「それは正解だね」って言われると、安心する。
しかし、ひとたび、「それは間違っているよ」って言われると、そこはかとない不安に襲われたり、間違い=失敗と思い込んで、私はやっぱり駄目だと落ち込んだり、自分を責めたりする。
そして、「じゃあ、正解はなあに?」って聞いて、人から正しい答えを与え続けてもらったり、自分の中の答えと合っているかを確認する。
では、そもそも、その正解って何だろう?
誰の為の正解何だろう?
もちろん、正解というものもあるのだろうけれど、それは、その状況で考え尽くした結果のベストなもの。
しかし、それでさえ、ひっくり返ることだってあるのです。
「私、自信がないです」の裏に隠れている意味は、
私の考えだした答えが正しいかどうか、自信がないのです。
それは、答えというよりも、自分自身から湧き出てくる考えや感覚が曖昧だったり、
そもそも全く感じなくて分からないので、自信がないという表現になるのだと思います。
だから、他人に正解を求めるんですね。
他人に正解を求めるというのは、他人軸で生きてるということ
自分軸があれば、他人に意見を求める事はあっても正解を求めたりしません。
その意見でさえも参考程度にし、それを取り入れるかどうかは、自分で判断します。
では、なぜ、他人に正解や答えを求めるのか?
そこには、幼少期もしくは、もっと遡った乳幼児期の親子関係が大きく関わっています。
赤ちゃんは、おなかの中に居る時は、お母さんと心身共に一体化しています。
しかし、出産で、おなかの外の世界に出た時に、まずは、身体がお母さんから分離されます。
おなかの中に居た安心・安全が脅かされます。
産まれた後、赤ちゃんは、
・目の前にいるお母さんの瞳に自分が写っているのを見ることで
→お母さんを認識し、安心・安全を感じる
・手や足、身体をさすってもらったり、触ってもらったりや抱っこというスキンシップで
→肌と肌を合わせる事で、暖かい感覚を感じて、皮膚からも個を認識し、安心・安全を感じる
・泣いて欲求を訴えると応えてもらえるで
→お母さんという他に助けを求めても、応えてもらえることで安心・安全を感じる
こうやって、安心・安全を感じながらも、少しずつ、お母さんと自分は別の人間なんだと個の違いを認識していき、
自我を形成していきます。
そして、
これが好きなんだね。
これが嫌いなんだね。
これ美味しいね。
これは楽しいね。
このことは悲しいね。
これは怖いね。
こうすると痛いね。
こういう事がおきると淋しいね。
今怒ってるんだね。
といった、気持ちや感覚を言語化してもらいながら共感し応答してもらうことで、自分の感覚というものが分かり、
自分の感覚を今度は、自分の言葉で素直に表現できるようになります。
それが、本来の自分に自信が持てる事ではないかと私は思います。
このプロセスが、行われずにいると、自分の気持ちや感覚を言語化できないので、表現できず、また共感・応答してもらえないので、
この感覚が、何なのか、わからない状態になってしまうのです。
・とても厳しい親に育てられた
・過保護・過干渉な親に育てられた
・親がほとんど子どもと関わりを持たなかった
親の支配があまりにも強い場合や、その逆でまったく関わりを持たなかった場合、
共感や応答されることなく、一方的に支配されて、自然と湧き上がる感情や感覚全てを抑圧することになったり、
全く関わりを持たれないので、自分の感覚がわからなかったり、受け止めてもらえなくてあまりにも悲しくてそれを感じたくない為に諦めてしまったりします。
本来、人の感情というものは、とても自然に湧き上がってくるものです。
特に親の支配が強い場合は、楽しい、おもしろい、嬉しい、悲しい、苦しい、腹が立つ、こういった感情や感覚を表現すると、怒られて、
抑圧されるようになると、表現することをタブー化され、表現することを諦めてしまいます。
そして、自分の感情や感覚を感じないようになり、自我が形成されず、自己が確立されなくなってしまうのです。
そもそも、反抗期は、自我の形成、自己確立のファーストステップとなります。
親とは、違う人間なんだ。自己というものを主張するのが、反抗期なんですよね。
それなのに、親の抑圧によって本来の自我か形成されずに、
本来その人が持っている自我とは別で、親の支配(抑圧)によって作られた自我を自分の自我だと思ってしまっていると、
反抗期はありませんよね?
だって、その自我は親のコピーだったり、親が喜ぶように作り出された自我なのだから。
そうなったのには、理由があります。
乳幼児期に、親から安心・安全をもらえなかったり、
支配が強すぎて、ありのままの自分を受け入れてもらえなかったことで、
親の喜ぶような自我を作り出し、それを自我として持っていたら、
・家族の一員として居場所を与えられていた
・生きていてもいいという感覚がある
・親が機嫌よくしているので、安心・安全を感じられた
生き残るために作られた自我と本来のその人が持つ本来の自我とで「せめぎ合い」するんですね。
その「せめぎ合い」が葛藤なんですね。
なぜなら、そこには作られた自我を手放さなければならないのです。
その手放すという行為は、今まであった上のような利得を手放さなければらないのです。
それは、死をも超越するほどの恐怖です。
だから、この葛藤をすればするほど苦しくなるのは当たり前です。
リトリーブサイコセラピーでは、この恐怖がどこからくるものなのか、ひとつひとつ紐解いて
まずは、「本来の自我(自分)」を確立していきます。
そうすると、他人軸ではなく、自分軸で物事を考えられ、どうしたいかという答えを自分の感覚を使ってみつけていけるようになります。
自分の感覚を使って答えを見つけて、それを行動に起こしていくという経験をたくさん積むことで、成功・失敗という結果に拘わらず、自分の中に自信というものが生まれてくると私は思います。
リトリーブサイコセラピーという手法を使って、本来その人が持っている自我を取戻し、自分で生きる力を取り戻すサポートを致します。
自分の中にある感覚を確立し、それを信じることで自信を取り戻し、自分の頭で考え、自分の人生を切り開いていみたいとは思いませんか?
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