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おはようございます。


現在の大阪城は、何度も焼失し建て替えをしています。
そして、昭和の時代に現在の大阪城になり、平成の大改修を行って現在に至ります。


大阪城は、江戸時代は幕府、明治維新後は陸軍に管理され
一般の人が立ち入ることができませんでした。
しかし昭和3年、大阪城本丸に豊臣時代の天守を再建し公園にする事が決まりました。
昭和4年、本丸全域の公園造成に着手し昭和6年に完成しました。

一方天守閣は豊臣時代の天守復興を考えていたが
(当時は秀吉大坂城と徳川大坂城は同じ城だと考えられていた)
資料がほとんど無い状態でしたので、
大坂夏の陣屏風に描かれた天守をモデルとし、
現存する他の城を参考に鉄筋コンクリート造外観五重内部8階(エレベータつき)の

立派な建物が昭和6年に完成しました。



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おはようございます。

現在の大阪城は、秀吉が建てたものではありません。
何度も焼失したために建て替えをしています。


関ヶ原の合戦(1600年)で天下を手にした徳川家康は江戸に幕府を開きました。
しかし大坂には豊臣秀吉の遺児秀頼と淀君がいます。
そして何より秀吉のつくった難攻不落の大坂城がありました。

このため、両者の対立は避けられず1614年大坂冬の陣が起こります。

この戦いでは大坂城があまりに堅固であったため、
両者にらみ合ったまま勝敗がつかず講和するに至りましたが、
徳川家の謀略によって大坂城の濠はすべて埋められてしまいます。

そして翌1615年夏の陣で、ついに豊臣家は滅亡し、
秀吉の大坂城は燃え落ちてしまったのです。


1620年、大坂城は徳川家の直轄地となり、城の大改修が始まりました。
徳川家の建設する大坂城が豊臣家の大坂城より見劣っているようでは
大坂の町民に見くびられてしまいます。
豊臣時代の大坂城はすべて埋め立てられ、
今までより小高くなった城地に石垣を積み上げ、秀吉の築いた天守よりもさらに高い天守を築きました。
この城が、現在の大坂城です。

ただし、天守は1665年に落雷で焼失してしまい、江戸時代には再建されることはありませんでした。


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おはようございます。


突然ですが、僕は大坂城が大好きなんですよ。
先日も天守閣に上って来ましたので、大阪城の歴史を勉強しましょう。


織田信長亡き後、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、
1583年に賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦でライバル柴田勝家を滅ぼし、
実質的な信長の後継者としての地位を固めました。
そこで秀吉は、信長の後継者としてふさわしい大城郭の建設に着手しました。
それが大坂城です。


ルイス=フロイスというポルトガル人宣教師の記録には
「最初は2,3万人の労働者をもって工事を始めたが、
完成を急ぎ月々5万人ほどの人が工事に従事した」と残されており、
かなりの大規模工事であったことが想像できます。

約2年程度で本丸部分がほぼ完成し、外観は五重(内部は九階)の総瓦葺き、
壁面の下半分が板張り(下見板張り)黒漆塗り、
上半分が灰墨を混ぜた鼠漆喰(ねずみしっくい)だったようです。

全体的に黒っぽい建物にしたのは、
飾り付けた金箔を引き立たせるためともいわれています。
秀吉の大坂城は、その後も二の丸、三の丸(総構え)と1598年に亡くなるまで拡張されました。



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