句解32霽・声よき念佛
烹(に)る事をゆるしてはぜを放(はなち)ける (前句再出)
声よき念佛(ねぶつ)藪をへだつる 荷兮
荷兮も酔っ払った。一の折に「仏喰たる…」があり「仏」が2回出ています。
鬼・虎・龍。女など強い語句は去(さり)嫌い(ぎらい)とは別に、一座一句に限られています。このあとも去嫌いは免れているものの類語が重なる句があり、かなり句づくりがルーズになっています。
「藪(やぶ)をへだつる」という俳(はい)言(ごん)も二番煎じ(にばんせんじ)です。歌仙「むめがゝに」の巻、六句目に〈藪(やぶ)越(ごし)はなすあきのさびしき〉(野坡)があり、表現がユニークとは言えないのです。
「声よき」は3句前に「鐘の声」があり、古注など「面白からぬ付方なり云々」と評判が悪い。安東次男は、「同字差合は承知でやっている。その上で「藪をへだつる」という気転・妙案なのだ」と妙な訳(わけ)知り(しり)をしている。先述のように、初出(しょしゅつ)なら褒められてよいが、後(あと)出し(だし)じゃんけんは褒められないのです。おまけに、「念仏」は放生会(ほうじょうえ)だろうと見当(けんとう)をつけていますが、放生会(供養のため、捕えられた生き物を放してやる儀式のことで陰暦八月十五日)は、仲秋の季語ですが、この句の季はすべての句解で「雑(ぞう)」となっています。そしてこの句の割付から見て「雑」でなければなりません。従って「念仏」は放生会ではありません。
「声よき念仏」は、阿弥陀仏の名を唱えること。つまり古注の「美声の念仏」は誤りだと思います。
前句、無益な殺生(せっしょう)をやめて放漁することは阿弥陀仏の名を唱えることに等しい、というのです。つまり虚を実で付けた、ということです。
しかし問題はここで終わらない。「藪をへだつる」とはどういうことか。
———耳に心地よいお教えも雑念という藪をへだてるとキキメが薄れるんではなかろうか。
「隔靴搔痒(かっかそうよう)」という熟語が顔を出して来ます。藪の向こうのお寺さんから美声の読経が流れて来てうっとりします、という古注はオカシイと思います。
もっと考えると、この解釈も怪しくなります。
わざわざ「声よき」とフラなくてもお経は「有難い」ものです。諄(くど)くなる表現を敢えてとったのは何故か。
「馬から落馬した」という場合、こういう筆法を冗語法(じょうごほう)(強調など、修辞的効果を上げるために、必ずしも必要ではない語を加える表現法)といい、「馬から」を先行(せんこう)詞(し)といいます。「声よき」は先行詞で反語の予告です。「可愛がる」には一語の中に「いじめる」を持つ冗語的反語です。
また、「(やぶを)へだつる」と「隔(へだ)つ」下二段動詞の連体形留めにしたのだろうか。
これは「藪をへだつる声よき念仏」の前後逆置き強調だと思います。意味は逆転して
———どんなに耳障りのいい説法も耳の遠い大衆には屁のツッパリにもならんよ。
というのが深意(しんい)です。「馬の耳に念仏」。
荷兮さん酔っ払って「仏の顔も三度」(いかに温和で慈悲深い杜国さんでも無法を度々加えられれば怒り出すでしょう)というつもりでしたが妙な意味合いの句をはきましたよ。
お開(ひら)きになっても可笑(おか)しくないほど、へべれけになっているのです。
さて、最後も近くなってきました。
声よき念佛(ねぶつ)藪をへだつる (前句再出)
かげうすき行燈(あんどん)けしに起侘(おきわび)て 野水