回文俳句日記12月4日兼題「鴨」 | ouroboros-34のブログ

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こころに映りゆく由無しごとを其処は可となく書き付けて
ごうなっだのでありますぐるらめ。

  鴨見たか飲むのを飲むの形見モカ
  ———かもみたかのむのをのむのかたみもか /

鴨よ。見たか。父の愛飲していた珈琲を、故人を偲び、鴨よ、見たか、我また飲むを。

俳句では、作者が自己の作品を自ら説明するのはヤボ、とされています。

承知しながら、なお、注釈を細かく併記するようにしています。
理由は三つ。①古文法中心の作品としていること。②解説文もまた別個の創作物とかんがえていること。③自解はヤボではないと考えていること。
この三つですが、①は古文は廃れたり、意味が変わっていたりして現代ではわかりにくい、かつ、誤解されやすい。。②は、自解もひとつの世界の紹介であり、10人には10通りの解があるに違いないからです。最後の③は、最も基底をなす自解があるのは当然だからです。基底で創作の意図の無い(なにも考えない)創作は創作ではないからです。
次の言葉は漱石が子規に述べたものです。

《小説「エイルヰン」の批評》 夏目漱石 ホトトギス-32-8-10に寄稿。より引用
著者の考と評者の考とは必ず一致するものではない。評論其物が精確であれば著者は之に対して郢書燕説の不平を持込む次第のものでない。
鳴雪や子規が頻りに蕪村の句を評して居るが銘々色々である。時としては何れも蕪村の意を得て居らぬかも知れぬ。然し批評さへ面白ければ、解釈が二通あらうとも三通あらうとも構はない。若し蕪村が不承知なら、自分の句にして文字は同じいが意味は違ひます、と済まして居ればよい。

他人の句をじぶんの句としてもよい、というのですから、面白いですね。このへんで…