身近に問題が生じた。よく言えば「類似句」、悪く言えば「模倣句」のトラブルである。
(『昊山人俳句匣』寒月魄枕頭に『悲惨物語』2017-01-26)
俳句はきわめて短い詩型文芸であるため盗作のトラブルがしょっちゅう発生します。入選作が入選を取り消されたりすることもよく耳にする話です。
冬の雲情死行四十年の果て/ 昊山人 (2016-11-27)
寒雲や一億年の情死行/ 悠 (「俳句界」2月号01-20)
この二つの句は〈情死行〉という楚辞がミソ(鑑賞のポイント)です。
このふたつの句のキャッチコピーが〈情死行〉であると言ってもいいでしょう。
ところで〈情死行〉というコトバですが、〈情死〉という言葉はあるが〈情死行〉というコトバがあるのでしょうか。ウロにはどういう意味かさえよくわからない。
結論から言えば、〈情死行〉は昊山人さんの造語です(と思うのでその仮説のもとに話を進めます)。昊山人さんの造語ならまだ出来立てのホヤホヤだから(2016-12-27生まれ)他の文献にはあるはずがない。従って悠さんの〈情死行〉の取材源は昊山人さんのこの句であることは間違いない。
まあ本人も認めていることだから、いまさらここで改めて述べるまでもなかったのですが…
さてこの両句を比較するに当たって、悠さんのブログを覗いてみました。そのコメント欄に、モリオンさんへの反論として、
冬の雲/ 四十年/ 情死行の果て/ M
三段切れの意味不明な幼児言葉で俳句になっていません。
と書かれていました。
よく見て下さい。元の句をこれに倣って腑分けすれば、
冬の雪/ 情死行四十年の果て
でなければなりません。
「情死行」と「四十年」を勝手に入れ替えて意味が分からんという意図こそ分かりませんね。
以前このブログで『ことしのことば《ポスト真実》』(2017-01-20)と題して、デッチあげた虚構真実のもとに論議をかさねてゆくことについて話しましたが、この悠さんの「三段切れの…」の主張がまさにそれです。
原句をわざと誤記してあげつらう。これは批評にご法度ですねえ。
これは悠さん、ダメ。
さていい材料(コトバ)があるとき、それを使ってはならないという定めはない。
季語などはこれを禁じたら俳句にならない。季語は模倣の第一歩です。
悠さんのこの句の構造は独特です。
そこで意味を取りやすくするように、普通の形に書き換えてみましょう。
〈寒雲や一億年の情死行〉 → 〈一億年の寒雲や情死行〉
意味がよく通りますね。つまり、
ニンゲン誕生まえからDNAのなかに属性(♂ ♀)が織り込まれており、それが「情死行」という世俗人情物語になるのだ。
この原形の叙述を逆さまにした(倒置した)倒置法は句意を強める高等手法です。
「一億年の情死行」とは何のことだ? 笑止千万。と切り捨てることには賛成できません。
「情死行」という造語を発明しそのインパクトを句に登用したのは昊山人さんのまぎれもない手柄、それに目を付け、大景に応用したのは悠さんの手柄、そう思います。
そして点者の目にとまった、そう思います。
ふたりのどちらが欠けてもこの佳句(秀句だとウロは思うのですが…)は生まれなかった。
ふたりの争いは、夫婦が子を巡って争って犬も食わん、という感じです。
初めのほうで
ところで〈情死行〉というコトバですが、〈情死〉という言葉はあるが〈情死行〉というコトバがあるのでしょうか。ウロにはどういう意味かさえよくわからない。
と書きました。これからが本稿の本旨です。
これが必要だったのでモリオンさんのブログのコメント欄にではなく自分のブログに書くことにしたのです。
〈情死行〉。
どうも合成甘味料に頼り過ぎた安物のスーパーの生菓子のように、感動を読者に媚びているようで 感心しない造語であると思うのです。
その理由についてはのちに述べます。
こんな造語を作る人も作るひとだが真似る方もまねるほうである。
こんな抽象的な表現で見るひとを感動させられると思ったら大間違いです。
ティーグル・モリオンさんのブログ・プロフィールに「抽象的な感動はない」とあり、けだし名言であると思いました。
それなのに、この造語は抽象的な感動を強制しているではありませんか。
あなたがたは「情死行」を知りもしないで文字づらで弄んでいるのです。
ウロは20歳代に心中の経験があります。
博多の遊郭で女郎と情死したが失敗して生き返りました。
死ぬのは一瞬だ。道行ったって十分ぐらいなもんだろう。
「情死」は刹那的なものだ。切羽詰まったものだ。「情死行」なんて「…行」なんて嘘っぱちだ。
お芝居はウソごとだ。架空だ。架空は抽象だ。抽象の感動は美的感動でなければ意味がない。美的感動は強制されるものではない。自然に沸き起こるものだ。
ウロはその事件と「今」はスパッと切れている。
なぜ切れているのか?
事件が「心中」だからだ。
もうひとつはっきり言うと「駆け落ち」でないからだ。
「駆け落ち四十年」ならわかる。これなら事件と「今」がつながっていることもあるだろう。
これならこの句は合格だ。これなら感動は具体的になる。
「心中四十年」はどこまでいっても抽象的なのだ。「心中」を「情死行」に変えればもっと抽象的だ。
いいですか。「情死」という言葉は成立するけれども「情死行」というコトバはあり得ないのですよ。
こんな人造語はニホンゴをダメにするフォニー(まがいもの)です。
「おいしい」を「めっちゃやばい」というのと同じ、季語で言えば「終戦忌」「敗戦忌」と同等。
結論。
―――この二句はいずれも欠陥俳句である。
―――お断わりしておきますが以上はウロの私説であって、どなたにも押し付けるものではありません。諸氏の異説を排除するつもりは毛頭ありません。むしろいろいろな考えがあってもいいと思っています。
「情死行」につられて点者(選者)も悠さんの句に入れた。バカな点者もいたものですね。
投句は勿体を付ければ選に入りやすいというコツがあります。
選者の目にとまりやすいからです。
投句作家は自句がどうやったら目につくかに常に腐心している。鬼面ひとを驚かせる「これどうじゃ!」に憂き身をやつす。
ひとたび入選しようものなら天狗になって、やたらに添削をしてはまわりから迷惑がられている。
かくして投句作家は句が大袈裟になる。「一億年」「とか「宇宙」とか「日の光」とか、俳句で全宇宙を表現するなど途方もないことを夢見る。
悠さんの私淑する(悠さんを俳句開眼に導いた大恩人)師匠自遊ひろし氏の教えのなかに
「過去の俳句に類句・類想句がないか」
があり模倣句どころか類想句も厳しく排除しています。
この作句姿勢はたいへんすばらしいものです。
悠さんはこの条項に悖っているのではありませんか。
仲の良い友人の句のつまみ食いとは情けない。さらにつまんだものがいけなかった。かつ、それが入選してしまった!!
ではどうすればいいのか?
もらい水した先が誰あろう、悠さんのとても仲のいいお友達なのですから一言挨拶すればいいのです。
感謝の喜びを率直に分かち合えばいいのです。それが仲間です。
知らんふりしての「花盗っ人」、これはほんとうに花を愛するひとのやることではありません。
俳句を愛する者どち、ひとことことわれば「あ、入選しましたか。そりゃあよかった」と、下支えしたかいがあったからこその入選ですからこれを共に喜ばない人がいるでしょうか。
かつて独創的な句を発表していた悠さんのアイデアの枯渇を感じさせられてはウロもツラい。
「虎の威を借る狐」とはちょっと異なる「虎(ティグルはフランス語のトラ)の衣(句)を借るキツネ」のこの事件は悠さんの独創性の凋落を示すものではないことを祈るばかりです。
最近の悠さんの句を見て驚きました。
幼児返りしたみたいに初歩的なミスが多いのです。
「俳句」というグルっぽのスレッド「冬の俳句発表の場」に悠さんは盛んに自ブログへの勧誘をかねて投句していますが、そこを見てみましょう。
[600] 2017-1-29
羽子板や好きとは言へづ五十年/悠 「言へづ」…「言へず」が正しい。
[598] 2017-1-28
寒椿その艶壺におさまらず/悠 おさまらず…「をさまらず」が正しい。
[595] 2017-1-28
初しぐれ杖曳く影はばせおかな/悠 「ばせお」…旧仮名遣いでは「ばせう」が正しいが、芭蕉は自称では「はせを」と称した。(「ハ」について、ムカシは表記に濁点が無くても濁って読んでいた)
文意から俳人芭蕉のこととわかるが、自署ならまだしも、ここは漢字がいいでしょう。仮名にして知ったかぶりをするところではないでしょう。ウロが悠さんにいつも言う幼児性が端的に表れているところです。
句自体は率直ないい句です。仮名遣いは正しくないが。
悠さんのブログ『俳句界二月号』(2017-01-29)のコメント欄を見て驚いた。
モリオンさんのコメントがあり、(笑)(笑)(笑)で始まり(笑)(笑)(笑)…と随所に書かれていたからです。
これはまともなひとの議論ではない単なる嫌がらせです。
よっぽど腹が立ったのだろうがこれはいけない。
ツイッターで死ね死ね死ね…とあるのと同じで、浅はかな表記が筆者の貧しい表現力を際立たせているだけで、なんの実りもない。自戒を含めて書いてみました。
十七個も(笑)を連ねるぐらいだったら、強烈な俳句のひとつでもぶっつけた方がよほど俳人らしい。
嘲笑は放火犯と同じで価値を創出しない、のです。
挟みあぐ青りんごなる多面体 ウロ