「〈ら抜き言葉〉について世論調査のまとめが発表されましたね」
「うん、…手垢のついた話題という感じだなあ
。
昔の人で〈逆ラ抜きコトバ〉というのかなあ、〈ラ余し(あま)コトバ〉というのかなあ、まあそんな事例もあってあまり拘るのもよくないと思い、なるべくこのごろは避けているテーマなんだが…」
「ラあまし…? ですか?」
「 うん、梶井基次郎、知ってるね。『檸檬』は読んだことがあるだろう。このひとの作品に『瀬山の話』というのがある。
そのなかに〝量りしられない宇宙の空間…〟という表現がある。正しくはハカリシレナイ…だ。ラが余分だ。……『雪国』だって…」
「川端康成の、ですか?」
「そう」
「あれがラ余りなんですか? ラ抜きなんですか? どっちなんですかあ?」
女子学生Bは川端センセをけなされたと思ったのか、蟹(かに)あぶくを吹き出した。淡虹舎先生は吹き出した。見かけによらないせっかちだね、きみは。まあ聞き給え。
〈可能動詞〉って知ってるかね。辞典には、五(四)段活用の動詞が下一段活用に転じて可能の意味を表すようになったもの、と書いてある。例えば「書く」。これは、書カナイ・書キマス・書ク・書クトキ・書ケバ・書ケ、と五(四)段に活用するほかに、書ケナイ・書ケマス・書ケル・書ケルトキ・書ケレバ・書ケロ(ヨ)のように下一段に活用するところの「書ける」がある。
「書く」という動詞は別に「書ける」という動詞を帯同しているのだよ。これを可能動詞という。命令形は持たないと文法にはあるが、あってもいいように思う。
この形は近世江戸語に発生し明治以降、次第にひろく用いられるようになったそうだ。
ところで「見る」「出る」は五段活用の動詞ではないから下一段に活用する可能動詞は持たない。
要は、動詞には可能動詞があるものと無いものがある、ということなのだよ。
「見る」は上一段活用。「出る」は下一段活用で、デ・デ・デル・デル・デレ・デロ(デヨ)であって、デレ・デレ・…は無い。
語感も美しくない。――これはだいじなことだよ。
出れる・見れるは、到底耐え得るものではない。
可能動詞がないものを可能にするにはどうすればいいか。
助動詞という便利な道具が用意されている。
可能の助動詞〈られる〉を付ける。
見ラレル・出ラレル……。
きみたち、詩人を志すなら、志さなくても文学に関心をもつなら、言葉の美しさにもっと敏感になってほしいものだ。
ら抜きだか狸だか俺サビ抜きで ウロ
〈お待ちいただくのは可能でしょうか?〉 (ref.『ラ抜きことばのはなし(1)』)
「ら抜き言葉」がこのように変わりつつあるそうだが、なんとも武骨だねえ。
〈いただく〉には〈いただける〉という可能動詞があり、コナレの悪いぎこちないこんな言い回しをせずとも、
〈お待ちいただけるでしょうか?〉
というほうがはるかに美しいのです。
さっきの〝はかり知られない〟だが、「知る」は五段活用だから、知ラナイ…知ル…で、――「知れる」という下一の可能形があって、「世間に知レル」「少しは名の知レタ会社」「あいつの気が知レナイ」「たかが知レタ」など例文がたくさん辞書にある。
梶井の量りしられない、は、「そのためにどんなに迷惑したか(はかり)知れない」という正しい表現から外れており誤りである。
最近、「さ入れ言葉」が発生しているそうだな。
〈明日は休ませていただきます。〉
➡〈明日は休まさせていただきます。〉
という表現だ。梶井の「ラ余し言葉」ではこれが、
→〈明日は休まらせていただきます。〉
となっているわけだ。
「わかりました、『雪国』のほうはどうなんですか?」
(『ラ抜きことばのはなし(3)に続きます』)