「詩」は翻訳できるのか?
できないと思う。
「詩」は原語原文で味わうものだ。「詩」は意味ではないからだ。
《大地(テラ)――― ひと侍(はべ)り、日して時、言(げん)して詩。》
イ・ジュッカ・ピラマの詩の一部をこう翻訳したことがある。
原文はポルトガル語だがもとの詩とは似ても似つかぬ内容だ。しかし原詩の詩的試み趣向を工夫してこうなった。
ピラマはいうにちがいない、「なに?これ」。
そう、これは翻訳した時点で既にピラマの手を離れ、ウロのエピグラムなのだ。
エピグラムだからエラソウに見えるけれどコンテンツは大したことはない。
種明かしをすると「大地」のことを「詩的言辞」でテラというが、これをキーワードにしてある。つまりテラに「寺」の漢字を当て、ニンベン、日へん、ゴンベンを組み合わせると、上記のようにもっともらしい箴言ができあがる、というわけだ。
はじめに結論を書いておこう。
《「詩」とはメタファの工場である。製品はただひとつ、感性との共振をうながす音叉である》
これ又エラそうに定義しているけれど、大したことは言っていません。くだいていえば詩は高級ダジャレだとね。
前置きはこれぐらいにして、
素琴あり窓に横ふ梅の影 漱石
いつか、漱石の〈素琴あり〉の句解をいろいろひねくったとき、いたずら半分で、これを《現代詩》としてみたらどうだろうと考えたことがあった。
現代詩の言辞は、表面的な普通の言語の意味(ミメーシスという)で捉えようとしても捉えることができない逸脱した文法や語彙から成り立っていることが多い。
例えば、鳩は平和をあらわす、牛の一対の角は新約と旧約をあらわす、魚は愛を、菊はホモセクシュアル……といった具合でこのメタファを無視すると一体なんのことやらわからぬことになる。
従って、その詩に正しく深く共感するためには、その記号の範列(パラダイム)の変異体を体系の構成要素とするもう一つの意味作用を求め――テクスト外的相互関連およびテクスト内的相互関連に目を配りながら――その深意構造を捉えることが重要である。
詩的婉曲語法によれば、〈窓〉は、待つ(期待する・隔てる・手が届かない)を意味しており、〈影〉は、逃げる(つかむことができない・非正性、つまり負性・暗転への契機)をイメージする換喩(メトニミー)である。
そこで〈窓と影〉は、相互関連作用によって、現代詩ではしばしば〈墓石〉の変異体となる。
漱石の句、〈素琴あり窓に横ふ梅の影〉は、怪奇幻想文学仕立て、いわばホラー詩である。
この詩の重心をなす二つの主体は、一つに〈窓と影〉であり、もう一つ残る主体の〈素琴〉は無弦の琴で、無音son nul(マラルメ『類似の悪魔』)のなかに音を聴くことで、〈幻〉〈怪〉を意味する詩的言説である。
即ち、この詩の大意は、〝激しく鳴っている空想の琴のBGMが私をいたたまれない気持ちにさせ、目前に鎮まっている梅すらおどろおどろしく、もはや梅を梅そのものとして捉えることはできない〟となる。
皮相的にはおだやかな春の句であるのに、余情のない落ち着きなくいらいらした印象をともなうのはこのためである。
又、〈墓石〉〈幻〉が深意を形成しているので、陰鬱なイメージを包含している。
――墓石に老梅の魔障。その〈死〉と〈艶〉。…〈狂気〉。
《手術台の上でミシンと蝙蝠傘が出会う》は、現代詩を代表する有名な文言ですが、以上、漱石の俳句を手術台に載せて主治医ロラン・バルトの指示に従い現代詩のメスで解剖してみました。
そうそう、俳句に関する“記号の範列の変異体”に〈黒主〉があります。大伴黒士のことで、意味は「他人の句を盗む人」です。
前回のブログで漱石の黒主ぶりを告発しました。
陽へ病む 大橋裸木
という俳句があります。小生の最も好きな句です。ウロの創作もこの句を体して精進しています。
思うに「小説」「詩」というのは、病気にかかった「時間」の症状を順序よく述べるものかも知れませんね。
読んでくださる皆さんに誤解されるようにハナシを運んできました。
現代詩は誤解されたがっているように見える点で現代的ですから。
もう一度言いましょう。
《詩とはメタファの工場である》
え? 「シミリ」ですか? いえいえ決してシミリをバカにしているわけでは……
たしかに、ダジャレ、高級の、とは言いましたがねえ…