平和の俳句より
赤ちゃんを抱けば無茶苦茶平和かな 山崎義盛
(東京新聞2016・08・04)
選者評解
〈金子兜太〉リズムの弾み方と言い、表現の率直さと言い好句中の好句。〈いとうせいこう〉無茶苦茶平和。それが赤ちゃんパワー。明るく暮らせますように。
批評というのは怖い。
自分のすべてがあらわになるからだ。褒められるどころか、逆に叩かれることが多いのだがやめられないのはマゾ性があるのかな。
新聞俳句は毎日載るので楽しみが絶えませんねといわれればそのとおりだがモグラ叩きに似て、いささか、へこたれてきた。この項で擱筆としようか。
お二方は「無茶苦茶」を称賛しておいでになる。ウロはむしろこれがひっかっている。
無茶苦茶というのは負性のことばだ。例えば、成功に対する失敗とか、破滅とか、敗北とか…
だから「メッチャ(めちゃくちゃ)うまい」という今様表現には馴染めない。「メッチャまずい」もまずいが…
だから掲句を率直に解釈すると、
「赤ちゃんを抱くと明るい希望に満ちた平和を実感する」とはならなくて「赤ちゃんを抱くとぶっ壊れた鳥肌がたつ平和に思える」となって、このあかちゃんが染色体異常児なのかなと感じてしまうのだ。
俳句は俗語つかいの尻馬に乗ってはいけない。
あ、いま、ふっと思った。川柳と俳句のちがい…
俗語を駆使して風俗にどっぷり浸かるのが川柳、国語を正してゆくのは俳句の役割の一つではないか、とね。
鳥肌が立つことばのひとつに、語源に「あやぶい」をもつ「やばい」がある。
「危ない」、「悪事が見つかりそう」を意味する盗人・的屋(てきや)用語。
これをワカモノは「恰好わるい」と転じてファッシヨン用語にした。
10年を経て否定的な意味を肯定的な意味に転じて「凄い(素敵な恰好)」となる。
やがてこの津波は衣から食へと浸潤し、たとえばスプーンで口に押し込んで「これ、マジ、ヤバクネ」となる。これは一聞、中近東あたりの言語のようだが、現代ニホンゴとして通用しているコトバである。意味は意訳すると「この食事はとてもおいしいですねえ」となる。Dangerousまたはterribleがデリーシャスになっているのである。
ことばは正しくないと面白いという性格を持っている。
「はやりことば」はこの原理でつくられる。
同じワカモノコトバでも「ディする」。けなす、悪口をいう、という意味だそうだが、これは語源がディスリスペクト(失敬・無礼)なので素性がよすぎてハヤラナイだろう。
赤ちゃんを抱けば「メッチャ平和」だよな。だんだん見慣れてきたよ。いい句とは思えないけど…
作者は84歳。怖気のたつ句ではなかろうか。