ウチの会社に新たに着任した社外重役の朝礼の挨拶のなかで、一冊だけ挙げよといわれればこれを、という愛読書が紹介された。
岩波文庫の《後世への最大の遺物 デンマルク国の話》であった。内村鑑三。総務でまとめて購入し社員全員に配られた。
曠野を沃野に変じて、瀕していたデンマルク国を富裕な国に変えた話である。信仰と樹木とをもって国を救いし話である。ダルガス工兵士官の熱信(ママ)と忍耐と努力の話である。沙漠(さばく)は歓(よろこ)びて番紅(さふらん)のごとくに咲(はなさ)かんの話である。イザヤ書35章112節の話である。
ぼくは単純にこどもの頃のアンデルセン、学生の頃のキエルケゴールの国のイメージしかなかったのでこの異色といえる着任の挨拶によって遠い国の或る身近な一面を知らされたのだがそのときはそれで終わった。
ところが今、わがこころの砂漠にサフランが咲こうとしているのである。 ――ところでサフランってどんな花なんだ?
お、もう7時だ。10時にはHBH社から迎えが来る。いま、日本は午後の3時か。まだすこし時間がある。
せっかくだから俳句でもヒネるか。季節はどうだ? 天気はどうだ?
天気はどんよりしている。お天気どころか日の出も日の入りもぼんやりしていてデンマルク国は季節感のすっきりしない国だ。
俳句は変化の文芸である。
変化を喜ぶ文芸である。変化を尊び愛でる文芸である。豊かな季語も変化あればこそである。
こう季節もはっきりしない国ではどうもひねりようがない。
はじめての外国がこうなら、HAIKAIの国際化がすすんだとしても季語の意味がない国のほうが多いのではないか、と外地に足を下してはや17時間で結論を出したくなるんだな。
で、めげずに1句、
水ぽたガヒビクヒネモス午後ノ国
片仮名にしたのは外国だからである。〈水ぽた〉とは最前からカランのパッキンがくたびれているとみえて蛇口から水漏れが絶えないのである。〈ひねもす〉には漢字があり「終日」と書く。ひねもす、とくれば、のたりのたり、を連想するのが日本人である。のたり、はいうまでもなく春の海である。日本ならこれが隠れ季語となる。
〈午後の国〉に上に記載したすべてをぶちこんでいる。樹木だろう、信仰だろう、キエルケゴールだろう、不知花「番紅」だろう、イザヤ書だろう?
老大国群〈欧州〉の斜陽性を表現している、と俳句評論家が……言わないとは限らない。そのときはボクは照れたそぶりをしながらいうだろう、いくらかそんな含みもありましたがねえ。
――朝の紅茶がいつだってここでは午後の紅茶だろう。
お、ドアをノックしている。いで、Hirsner (Greetings₋挨拶)に臨まん! ――鼻下に立派な髭をたくわえている紳士が立っていた。
――Godmorgen ! hr.Uro ! (Good morning ! Mr.Uro ! )
――Godmorgen ! hr.Hansen ! (ハンセンさんおはようございますゥ!)
ハンセン社長ではなかった。――運転手だった。