ぼうたんの崩るや蝶も老いぬべし 悠
「春の水とは 補2」でこの句の評釈を試みました。
私の句解
牡丹の花が崩れるのは老蝶の足元がふらついたからだ。
(「牡丹の花」の一物仕立ての句、と解釈)
対するティーグル・モリオンさんの句解
牡丹が崩れるという表現は一意的なものでそこに蝶など他の要素が媒介する余地はない。
(「牡丹の花」と「蝶」の取り合わせの句、と解釈された)
実際の作者の意図は、寄せられたコメントにこうありました。
作者自解
牡丹の花が崩れたらその上を舞う蝶も忽ち老い果てるだろう、の意味。
恋人を失えば我もたちまち老いぼれるであろう、を本意とする述懐。
(「蝶」の一物仕立て)
意味がわかったところで、句をもういちど見ると、大いに悩んだ「や」は切れ字ではなく接続詞の「や」ですね。意味は……するいなや。
牡丹の花を見ながらすべてこころのなかで空想している句だったのです。
牡丹は散っていないのです。
散るところを思い浮かべながら牡丹を舞う蝶を自分に重ねたのです。
私も一物仕立てにもうひとつ「蝶」の一物があることに気付かないという手抜かりがあったのでした。
こうなれば文法上も完璧です。リズムがどうのこうのと屁理屈を述べる前にこれはこれで正しかったのですよ。
ここで私のワルイクセが頭をもたげます。
じゃあなぜわかりにくかったんだろう?
「や」が係助詞であるならば、結びの文末は活用語の連体形でなければならない、という鉄則は?
おもしろいことがわかりました。山口誓子の初期の代表作、
唐太(からふと)の天(あめ)ぞ垂れたり鰊群来(にしんくき)
係助詞「ぞ」「なむ」「や」は文末の活用語を連体形で結ばねばならないのに、つまり「垂れたる」とすべきなのに「垂れたり」でむすんでいる。
理由は表記を逸脱したことによる抵抗感で力強さを誇張したためだそうです。
したがってこれも悠さんが「老いぬべし」の断定に思いを籠めた表現ととれば立派なものなのです。
誤解により不快な思いをおかけしたことを深くお詫び申し上げる次第です。
わかりにくかったのは、この例外を見逃したことと、
2箇所も句跨り(句割れ)があるためでした。句割れは句意をわかりにくくします。
残念なのは、モリオンさんの指摘された、「春老ゆ」という気宇壮大な景色が、単なるこころの気配へと矮小化されてしまったことです。
それとコメントを拝見する限り、「切れ字」についてのご理解が十分ではないようにお見受けすることです。妄言多謝。
以上慌てて追記する次第です。