春の水とは濡れてゐるみづのこと 6 | ouroboros-34のブログ

ouroboros-34のブログ

こころに映りゆく由無しごとを其処は可となく書き付けて
ごうなっだのでありますぐるらめ。

以下「季語」無用論を展開します。

  夏の川のしぶきもみえず子もみえず    ウロ

「夏の川」は季語ではない、とする考え方もあるのではないでしょうか。
季は「冬」。冬の川を見ている。冬の川の写生ではあるが嘱目吟ではない。つまり心象スケッチでアタマのなかは「夏の」川なのです。
夏には盛んに水遊びのこどもたちが見られた川なのにいまはただ静かに流れているのみで寂しい風景だ。
「煙も見えず雲も無く風も起こらず波立たず 鏡の如き黄海は…」おなじみ日本海海戦ですが、なにも無いよ、といっているわけではなくこれと反対のことが心のなかで予測されているのです。
芭蕉の言う「虚に居て実を行ふべし」というのはこのように「季」を超越しなさいということではないか、とは我田引水。

トマトも胡瓜も一年中見られる野菜です。
季節を特定する必要があれば例えば、「冬のトマト」「夏の胡瓜」としなければならない。従って現代では特定しなければ「無季」の句となる。
むかしは「トマト」とは夏の季節を伴っていたが現在は単なる野菜を示す単語となりました。「川」と同じスタンスで考えなければならない、ということです。
芭蕉の言う「不易流行」は不易と思われていた「季語」さえも「流行」になった。「実」と「虚」の交接という高等戦術もアリとすれば季語の用途が変化するというよりも季語そのものの存在が無意味になるのではないか。
飯田龍太の代表句《一月の川一月の谷の中》も冬の句であるとナンジャコリャになるが、真夏の暑くてたまらないときの句であるとするとカキ氷で舌が痺れたような感覚が起きて大いに暑気払い気分になる。従って私に言わせると「一月の川」はまぎれもない真「夏」の句となります。
こうやって見直してみると優れた句は嘱目吟ではなく単なる写生から出発しても感懐に昇華させる過程で「季」が無くなっていることがわかる。そりゃそうだ。心理に季節はない。最後、霊台方寸のカメラには無季も有季もありようがないのです。こころはすべて雑(ぞう)でよろしいと爺は言うて居るのじゃがの。
俳句ではどうして季節をいれることが必要且つ十分なのかね。

季語は便利だ。
短歌の本歌取りのように、四を語って八を顕してくれる。短詩では重宝する。それだけのことではないか。
「義務付ける」ことは取りも直さず様式化形骸化すること。自縄自縛、これほどバカげたことはないのじゃないか。
油絵には季節が無い。音楽に季節は無い。
俳句が芸術を標榜したいなら季節は無用の長物だ。「冬」の句の「夏」の季節への瞬間移動、私はこれを季語のヴァルール化と呼びたい。

茶道には季節がある。あるどころか重要なモーメントです。和服も季節とともにある。ニホンの伝統芸術は季節をヌキにしては語られない。うん、なるほど。このデンでゆくと俳句も…

じゃあ、こう修正しよう。
季語が十分その役目を果たしている句と単なる定型あわせに嵌めこまれただけのようにみえる句がある。
――つまり季節の瞬間移動という高踏テクニックの不要な「季語がキイタ句」と「季節的デフォルメした句」と。

ここからは定型異論あり、です。

伝統国技の大相撲。外人さんが東西両横綱だ。俳句が国際化してきている現在、すでに季語は問題ですらなくなっている。
むしろ五・七・五の定型をどうするかのほうが大問題だ。実際に外国のハイカイを見てみても妙チキリンな短句が殆どだ。
大相撲でも大型力士が多くなり土俵の寸法をもっと大きくすべきだとの意見があるのです。グローバルという観点からも有季定型はもはや無意味かもしれない。
すこし季語論追加――

  紅よりもどどめが甘し桑苺

「桑苺」が季語としての役割のうすい句。話題に桑の実がでたのですこし崩れたくれない色のほうがずっとおいしいね、という「無季性」を持つ句。説明しているだけで一見詰まらないが、よくよく考えるとイミシン、二重底の句。――R17の句。

季語が季題としての重みがあるかどうかを選の規準にしている、と虚子が言っているので、私が採るとしても「紅よりも」は虚子の選には漏れる句となります。

  海南風を総身にうけし昔かな  佳作 選 田中 陽

季語がよく利いている句。上五、中七、下五がかみ合って寸分のゆるぎもない。「特選」だと思う。こいうのに出逢うと「季語」もいいもんだなと思います。

「季語」が句の関心の殆どになっていて句心(句の中心、穿ち)の無い句が最近多いようです。つまり季題が先にあってそれにあとの文句をうまくくっつける、季語に振り回されている感じです。
句会のありかたからこのような主客転倒した風潮があるのでしょうね。――これ、まずいです。

「自由律俳句」というものがあります。「春の水…5」ですこし触れましたが、もうすこし注文をつけておきましょう。

五・七・五の音律に捉われない自由な一行詩です。或る種リズムだけを頼りにしている。
グローバル俳句はこちらから殻を破ることになるでしょう。

まず「自由律」というコトバがおかしい。
「律」という言葉がそもそも「きまり」という意味ですから規則を無くすという「自由」と矛盾している。規則の無いゲームって成り立たないです。テニスコートの寸法もネットの高さもきちっと決まってるんです。人間が決めた規則だから変えるのは「自由」です。しかしいったん決めたらそのルールのなかでやるのがスポーツでありゲームです。オウンゴールは点数に入れない(防御の緊急避難として自分で蹴りこむことを認める)、オフサイド無視OKと決めてもかまわないのですが全く別のゲームになります。

自由律俳句も規則をきめてちゃんと一派の狼煙を上げればいい。
定律俳句
  旧定律 五・七・五型
  新定律 六・六・五型 
  分け入っても分け入っても青い山   山頭火
六・三型
  咳をしても一人           放哉
八・四型
  まっすぐな道でさみしい       山頭火
七・七型
  うしろすがたのしぐれてゆくか    山頭火
この他はまとめて(上記の律も支持者数次第で派を解消して)
不定律俳句
  陽へ病む              裸木
  シャツ雑草にぶっかけておく     一石路
河東碧梧桐の提唱した新傾向俳句もそろそろ整理するときでしょう。
ニホンゴの古来伝統のリズム「七」と「五」の組み合わせ以外に現代口語のリズム「八」と「六」の組み合わせを取り込んだ新しいリズムが必要になってきたのではないでしょうか。
定律に合わせる工夫(指を折って数える)も作句の楽しみのひとつです。自由律も標準をきめて定着してほしいものです。

当面わが国では旧仮名派もつづくでしょうが、つかうのなら常日頃使わない旧仮名であってもやはり正しい仮名遣いをするよう心掛けねばなりません。

旧仮名とはなんでしょうか? 
ムカシはこのように発音していたのです。
私がこどものころ田舎のおとなは「学校」を「グヮッカウ」と言ってました。ラジオで「ガッコー」(「ガ」は鼻濁音)と発音しているのを聴いてその垢抜けた発音に都会への憧れをいっそう募らせたものです。
「蝶」も「てふ」と発音していました。つまり振り仮名は気取ったり奇を衒ったりしたわけではなく忠実に発音をなぞっていたのです。「じ」と「ぢ」、「え」と「ゑ」の発音も同じじゃないのです。
いまのひとが使わないコトバですからまちがえるのは当然と思います。まちがいやすい例をいくつか挙げましょう。

  いくたびも打ち据へられて蠅のの我

「据へられて」→「据ゑられて」 「す・う」ワ行下二
「のの」→「の」 校正ミスですけれども俳句は短いので一字もまちがってはいけないのです。

  身を絞るひとしずくにや梅雨の月 

「しずく」→ 「しづく」 動詞の「垂る(しづる)」からきたコトバ。

  きみが身の凸凹さかん雲の峰

凸凹→凹凸 普通は「おうとつ」といいますが句の表現の技巧かと思われます。いわゆる、「二項対立」という手法ですかね。従ってどちらも可。
「きみが身」というと貴女の身分・立場というような感じがついてくるように思います。(まちがいではありません)ここでははっきり「きみが宍(しし)」とするのはいかがでしょうか。「とつおう」の奇策が利いてくるのでは。

  くもの囲にありて気付かぬ我が身かな

  白百合を詠むに穢れの我が身かな

2句とも「いくたびも」と同じ告白する様子が思わせぶりたっぷりな感じなので読む人がヒイテしまう句。わるいところはありません。このテの「感懐」「挽歌」は、いまは短歌の専門分野になってしまいました。

  草とりのふぐりにも吹き青田風

「吹き」→「吹く」 「吹く」の連用形では吹きたりでないと収まりが悪い。(助動詞「たり」をつかって)

  草取りのふぐりに吹きたり青田風

連体形にすると「青田風」を修飾するのでよく収まる。

  草取りのふぐりにも吹く青田風

  夜遊びで覚へそめしも祭かな 
   
「覚へ」→「覚え」 「覚ゆ」はヤ行です。  
夜遊びでなにをおぼえたのか不明。「夜遊びで」→「夜遊びを」にすれば意味がとおる。 

  花火消へ川面ただよふ火の記憶

「消へ」→「消え」 消ゆ ヤ行下二 終止形に直してみると違いがわかりやすい。消える(口語の終止形)→「消ふ」とは言わない
で「消ゆ」という。

  天上の花とぞ見ゆる青き罌粟

赤・白・紫はあるが、青い芥子ってあるのかな。

  みやびなる名ほどにあらづ沙羅双樹

「あらづ」→「あらず」
沙羅双樹はなつつばきともいういい花ですよ。作者は「芥子の花」も夏椿も見たことがないのじゃないかな。
やはり写生は歌詠みの基本です。「虚に居て実を行ふべし」。「実」を行うことがだいじです。
「ざれたる句は作者によるべし。まずは実体なり」。(「まず」は「まづ」のあやまり。悠さんのブログより芭蕉のことばとして)
先ずは実体の把握から、です。

  さみだれに殺されている三日かな
   
「いる」→「ゐる」
「三日」は新年の季語、それ以外はなるべく使わない。
「五月雨」という季語は、とにかくずっとだらだら雨がつづいている形容で、他の雨とは用法が大きく異なるそうです。だから「三日」が短すぎて「さみだれ」とは相互干渉し合わないのです。  
”土方殺すにドス要らぬものの三日も降ればいい“が下敷きになっているのでしょうけど、自分の境遇と雨による影響をテーマにしたことはわかるのですけど、「さみだれ」と「三日」の実態もかけ離れていて、措辞自体の相性がわるいのではどうしようもありません。
一句に季節を二つ用ゆる事、初心の成りがたき事なり。季と季のかよふ処あり。
芭蕉の教えですが、どっちつかずになる恐れがあります。

  一杯のコップの水の秋うらら

ふたつ季語がある例です。
「うらら」「麗らか」は、「春」の季語です。気分だけを頂戴して秋に流用するというのも斬新で試みとしては問題ないし、「秋」というまぎれもない最強の季語なので侵しあうことも絶対無いので問題はありませんが、やはり選にはとってもらえないでしょう。
ここはやはりすんなりと

  一杯のコップの水の春うらら

であればすごくいい句だと思います。水のきらめきがコップに反射してキラキラとした春の寸景が目にみえるようです。「一杯のコップの水」の手柄です。なにげない描写ですが、いい上五中七の流れですねえ。
そういえば、春とぬるむ水はすごく相性がいいのですね。それもコップの水と、切り取った感性は今までに無いと思います。「凍滝に」に匹敵すると思います。

俳諧といふは別のことなし。上手に迂詐(うそ)をつく事なり。と芭蕉が述べているそうですが、見え透いた虚構はいけないと思います。
悠さんから教えてもらった句、小学生の作品、

  天国はもう秋ですかお父さん

季語がすべてを語り、一語の無駄もなく、深い余韻の残る名句かと感動しました。
悠さんのコメントをそのまま転載しました。

ウソが微塵もない。コトバを飾らない素直な気持ちをストレートに句にできれば最高だなと私もまた痛感しました。

母の日や質へ流せし袋帯  

あたまのなかででっち上げた句。私が意余ってよくヤラカすイケナイ句です。盛り込みすぎて意味がとりにくい。
「流せし」→過去の助動詞「き」ならば「流しし」、「けり」ならば「流しける」。完了の助動詞ならば「流しつる」「流したる」「流しぬる」。
「母の日」にムカシの母を想い出している。礼装用に大事にしてきた袋帯を生活に窮して質屋に出した母の在りし日の姿をこどものころにかえって切なく想い起こしている。ということでしょうか。
「母の日」がキーワードなので外しづらいのですが思い切って省いたらどうでしょうか。私には荷がかちすぎるのですが、
  
 母の日に想う  袋帯質に出したる母ありて

質「が」ながれるのは質屋に出したものです。だからここは「質へ流せし」→「質にあづけし」「質に出したる」「質に流れし」。
この中では、質にながれし、かな?
とにかくこれはむずかしいテーマです。私にはどうしたらいいかわかりません(降参)。

  ふうはりと風を纏ふて単帯

「まとふて」→「まとひて」 完了の助動詞「つ」は動詞の連用形につく。「まとふ」の活用はハ行四段 ハ  フ フ ヘ ヘ

  満州や母の背遠くカンナ燃ゆ

おなじ母を偲ぶ句です。いい句です。
「満州」をこう書くのが普通になってきましたが、正しくはサンズイのついた「満洲」です。ゆかりのあるひとにとってはだいじにしたい固有名詞です。

  ハナミズキ風に抱かれてダンスダンスダンス

雰囲気のよく出たいい句ですね。実によく観察されていると思いました。ハナミズキはこのとおりなんです。

震災五句

  漁る海も打つ田もあらず石巻    特選
  呑まれたる村は海市となりにけり  特選
  対峙せる原子炉そして葱坊主    特選
  原子炉てふバベルの塔や大枯野   秀逸
  立枯や葱と私と原子炉と      入選
すべていい句ですね。名句です。ただし、私は「バベルの塔」の措辞には賛成しかねます。
「すなどる海も」は破調にしたところが余情がありすばらしいの一語です。

  その下にわがふるさとや雲の峰
  わが町をふんずけて立つ雲の峰

「ふんずけて」→「ふんづけて」 「ふみつける」から来た言葉。文語では「ふみつ・く」カ行下二→「ふみつけて」となるはずです。
従って「ふんづけて」は口語の俗言ではないでしょうか。
似たような句に

  行秋を踏張って居る仁王かな ゆくあきをふんばつてゐるにわうかな

という漱石の句がありますが、「ふんばる」はムカシからあるようです。(「踏み張る」の転)「ふんづけて」ということばがあれば、こっちのほうがよかったなあ、と漱石も嘆くかもしれません。
現代語を旧仮名にするとこのような齟齬が発生します。このようなときは漢字で誤魔化すしか方法はありません。
「ふんずけて」→「踏ん付けて」

「雲の峰」2句連作となっていますがこうして並べる場合に新たな問題が生じます。
2句が相互に干渉しあうのです。上記の句でいうと、おなじ「雲の峰」の下に「わがふるさと」と「わが町」があることになってしまうのです。「わがふるさと」がすぐ隣の町にあるのならまだしも遠く故郷を偲んでいる態(例えばTV画面で見ているとか)ですから、おなじ雲の峰の下にあったのでは具合がわるい。

  篝火をうつして鵜の目あかあかと
  吐かすとき鵜の目鵜匠の目を睨む
  鵜綱引く鵜匠もかなし鵜もかなし

3句連作の句群。それぞれの句もいいが、格別、配置がいい。序破急の形に置いてあるすばらしい連作です。相互干渉もないどころか互いに共振して第三の波長をだしている。効果が大きい。
残念なことに作者が「鵜飼」を「見たことがありません。テレビでも。と言っていることです。ベテラン同士のウラ話ならともかく、初心者には「観察」の重要さを教えるべきでこれに逆行するものです。厳に慎むべきだと思います。勿論この連作の良さをいささかも阻害するものではありませんが。

「俳句界」2013・7月号塔稿句より

  南北に憂いはあれど桜咲く   佳作   選者 名和未知男

「憂い」→「憂ひ」

  一夜にし空染め上げし桜かな  佳作      有馬朗人

ブログでは「桜かな」→「初ざくら」になっている。しかしこれでは選にならないだろう。「桜かな」のほうが正しいから。
「一夜にし」は「一夜にて」が正しいのではないかと愚考します。

  全山を睨む金剛桜かな     佳作      豊田都峰
                 佳作       松本 旭
ふたりの選者から目をつけられた珍しい例。

  おおぞらのどれも母なる桜かな 佳作    山本洋子

「おおぞら」→「おほぞら」
ここではプロの選者が旧仮名を誤った例を載せました。

  七色を生きて紫陽花虚仮の花

はじめ「七色」というコトバにひっかかったのですが、必ずしも赤・橙・黄・緑・青・藍・菫の七種類の色でなくてもいいんですね。多くの種類のことでも七色というのだそうです。例、七色の声。
紫陽花は七変化するので浮気ものという花言葉だったように記憶していますが、その女心を表現したのであれば、

  七色を生きる八仙花(あぢさゐ)虚仮なるか

としてみましたがよくありませんでした。原句がいちばんいいようです。


今回はここまでです。次回はプロの旧仮名の誤りをもう一例ひきます。

次回でシリーズはおしまいです。