「蕪村句集講義」(俳句界2015・5月号)について | ouroboros-34のブログ

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こころに映りゆく由無しごとを其処は可となく書き付けて
ごうなっだのでありますぐるらめ。

俳句のギョウカイに縁がなく俳句雑誌を読んだことがなかったが、たまたまの縁で目にせざるを得なくなった。
それが「俳句界」でこれがなかなかおもしろかった。
今回見たのは2015年5月号である。雑誌の返却期限が目前なので早速書いてみよう。

《俳句の「読み」を読む》  岸本尚毅
――再読『蕪村句集講義』――

俳句は最もみじかい詩だから、コトバを省略する。そのため句の意味がわからぬ場合もでてくる。ここでは昔から論争のあった句について考える。以下いずれも蕪村の句。


待人の足音遠き落葉哉  まちびとのあしおととおきおちばかな

子規の解① 待つこと久し遠くに落葉踏む音がはじめて聞こえ出したよ。
子規の解② 待つこと久し遠くの足音が近づいてきた。あ、門を開けずに遠ざかっていった。

新潮集成 そのひとらしい足音が近づく気配がしたが、その幽かに遠い足音は落葉の音にまぎれて定かでない。

岩波体系 落ち葉を踏んで来るそれらしい足音はまことに幽かで遠い。

ウロの解 上・中句で心情を語り下句で環境を示している。
     あのひとが待ち遠しいなあ、落ち葉だらけのなかに私は突っ立っていることだ。


夜興引や犬のとがむる塀の内  よこひきやいぬのとがむるへいのうち

「よこひき」と「犬」の関係が問題になったそうです。
現代では殆ど廃れてしまった風俗を句材としているものについては、「犬」などどうでもよろしいのであって、このような講座にとりあげるべくもないと考えます。


しのゝめや雲見えなくに蓼の雨  しののめやくもみえなくにたでのあめ

「蓼の雨」が、いま降りつつある雨かそうでないか、が問題になったそうです。

子規 タデはそう目立つ草でもないし広く一面に生えていることもない。だから今降っているのではなく前夜降った雨の雫をいうのだろう。今降っているのならとりたてて「蓼の雨」とすることもないし。

碧梧桐 うんにゃ。「雨」とゆうものは今現在降りつつあるものをいい。降り終わったあとに残った水玉は「露」とか「雫」というんだよ。

岩波体系 暁の空は晴れ渡っているのに、一しきり雨が降ったと見えて、蓼がしとどに濡れている。

新潮集成 まだ空は暗くて雨雲の空は見えぬのに、ものさびしくも蓼に降る雨の音がする。後朝の別れのつらさよ。「しののめ」と「雨」から「朝雲暮雨」(中国の故事。男女の契りのこと)を連想した。

ウロの解 あけがた雲はないのにほそぼそとこまかい蓼に相応しい、当に蓼が雨になって降ってくるみたい。「雨の蓼」「雨に蓼」ではないから、とウロは理由付けしている。


草いきれ人死居ると札の立  くさいきれひとしにいるとふだのたつ

屍骸があるのかないのかが問題になったそうです。

虚子 札だけがみえていて死人は草のなかにかくれて見えない。

子規 死体は役所に安置してあるから心当たりのものは取りに来い、と立て札に書いてある。死体はここには無い。

新潮集成 身元不明の旅人のこととて処理もできずそのそばに新しい札のみが草いきれのなかにめだっている。

岩波大系 行き倒れ人の告示の札があるだけで死体があるわけではない。

ウロの解 「人死居る」という札の文面からみるとお役所仕事の冷たさを感じます。草いきれのムっとする暑さの対比を狙った効果としてとらえればいいのじゃないでしょうか。死体がどこにあるかという詮索は余計なことです。


宿かさぬ火影や雪の家つゞき  やどかさぬほかげやゆきのいえつづき

「宿かさぬ」の意味が議論になったそうです。

子規 やどりを乞うたがどのいえもダメだった。そんな家の火影が並んでいる。

鳴雪 実際に訪問していないでただ貸さないだろうと想像しているだけ。

碧梧桐 はじめの二三軒は訪ねたが貸さなかったのであともダメだろうと思った。

子規 「宿かさぬ火影」を「宿を貸してくれなかった家々の火影」と解した。

鳴雪 貸してくれそうには見えない火影、と解した。

新潮集成 宿を乞うたが、すげなく断られる。振り返ってみると非情な雪中の家々には明るい灯影が点々とともっている。(子規と同じ)

岩波大系 貧しい旅行者の孤独な感情をもって眺めた雪の夜の火影の非情の美。蕪村の奥羽旅行の体験だろう。

ウロの解 実際はどこでも泊めてくれた。しかしそれでは句にも小説にもエッセイにもならぬ。ここは断られなければならぬところです。完全な創作でした。


以上5句について雑誌の記事とわたしの見解を述べてみました。

俳句の解釈についてひとによってさまざまな解釈が可能であり、必ずしもひとつに収斂するものではないことがこのいくつかの例からもわかります。
権威あるひとの解が常に正しいのではなく、自分なりの評価のしかたがあるべきだと思うのです。

なお言うまでもないことですが、句評には私情をはさんではいけません。ほかのひとに共感を強いてもいけません、あやまった方向に導く弊害があるからです。
逆にさまざまな解釈をたのしもうではありませんか。

まさに連句がそうで「誤解」をよろこびます。「誤解」のない付けは発展がないとして嫌います。前の前の句(1句挟んだ前の句)の解釈に戻ることを特に「嫌い」このことを「観音開き」といいます。


そんなことは兎も角、こんなことが俳句の社会では問題になるんだなあ、と奇妙に感心したのでした。
そしてうっかりのせられて「ウロの解」などと得意がっている自分に腹を立てているのでした。