春の水とは濡れてゐるみづのこと 3 | ouroboros-34のブログ

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こころに映りゆく由無しごとを其処は可となく書き付けて
ごうなっだのでありますぐるらめ。

さていつものように悠さんの丁重長文のコメントを転載して分析に入ろうか。
「《春の水とは濡れてゐるみづのこと》の句解について」に寄せられたコメント全文は以下のとおり。

虚子が家元制度を俳句に持ち込んで、詩人に非ずとも月謝を払えば、自由に俳句を作れるようになりました。
虚子の最大の功績と弊害は
だれもが花鳥諷詠のお題目を唱えて、俳人を名乗ることができるようにした点にあります。

咲きみちて空に遊ぶや花の山
咲きみちて今宵の朧すごからん
天空に月は古びて朧かな
地球より古き月ある朧かな
君おぼろ我もおぼろや寝るとせん
女喰らふ鬼はやさしき桜かな
花に酌む鬼一匹やむかう向き
緋毛氈立って見にゆく桜かな
吉野山こよひは花に添寝かな
田楽を手にぶらぶらと桜かな
田楽の蒟蒻につく桜かな
蒟蒻で生捕りにせん花吹雪
花吹雪花の歓びたえだえに

噴飯を通りこし脱糞の迷句は「俳句界」5月号巻頭五十句でした。
作者は
春の水とは濡れてゐるみづのこと
長谷川サンでした。

以上がその全文ですが、一読してわかることはouroboros-34が憎いのではなく長谷川櫂先生にたいへんな恨みをもっているということです。だから長谷川先生を褒めようものなら烈火のごとく怒り、とばっちりを受けるということなのです。
しかし下品ですよねえ、どんな私憤があっても櫂先生の句がウンコだなんてえげつないことこのうえない。どれもどの句も逸品だと思いますよ(ただし一句を除く)。どんなことがあったんでしょうねえ、私怨の中身を無性に知りたくなりました。

① 本文の前説「虚子が…」について
a 生け花か踊りとまちがえてんじゃないですか? アタマから訓示を垂れていらっしゃいますがいったいナンのはなし? あまりに唐突で意味がわかりません。櫂先生とどう結びつくのでしょうか?
b 詩人に非ずとも「月謝を払えば自由に俳句を作れるようになりました」?? 「俳句」と「短歌」は新聞に肩を並べてしょっちゅう載っている。カネを払ったなんて聞いたこともないよ。まして家元制度?? じゃ、訊くけど悠さんはナニ流なの? 立川流かな、落語の。どこにカネを払っているの? あ、そうか。月謝1,000円で月刊「俳句界」流ね、編集部「雑詠」投句係御中、のハガキ派、ね。――俳句を作るのはタダであります。カネなど要らんのであります。お説は荒唐無稽であります。
c 虚子の最大の功績と弊害?? え、え、これまた珍説。
「だれもが花鳥諷詠のお題目を唱えて…」ですって? あなただけじゃないですかね、いまどき「花鳥諷詠」をありがたがるのは。いまは他人の句を貶すときに「月並み」「凡句」という意味でつかいます。俳人を名乗る人にあなたの句は「花鳥諷詠」ですねなどと言おうものならどやされますよ。

② あなたはここから長谷川櫂先生の句を列挙しておられます。俳句界5月号のトップを飾る「特別作品50句」でした。いずれもさすが選り抜きのすばらしいものばかりでした、合点のいかない1句を除いて。

③ まことに畏れ多いことながら、私なりの鑑賞の方法を披露しましょうか。
50句は寄せ集めの50句じゃないのです。《花醍醐》という総合タイトルをもつ「集」なのです。作者は句をつくるとき以上に「集」にまとめるときには気を遣います。連句をやる俳人には常識なのですが、ここでは第一句にどれをもってこようか、最終句(第50句)にどれを当てようか、と悩むのです。

 奈落より花舞ひ上がる吉野建 (第1句)発句(ほっく)に相当
 ひとひらの花びら遊ぶ虚空かな(第50句)挙句(あげく)に相当

「吉野谷から空へ舞ひ上がる花吹雪を花醍醐といふ。」という解題が添えられているのでこの集の趣向を知る。あらためて先ず第1句と第50句をともに玩味する。その上で中身を愉しむ。すばらしいですねえ。雑誌の巻頭を飾るにふさわしい堂々たるものですねえ。
なかの句を適当にひっぱりだしてきて順序を考えずに並べ替える所業がいかに無謀なことかわかるでしょう?
あなたは手術のしかたもわからないで大腸を引っぱり出そうとする偽医者なのです。

「集」はシンガーが「アルバム」をつくるときと同じなのです。順序が大切なのです。AのあとにBがBのあとにCが…その上で最後にZが必要なのです。

あなたは《花醍醐》50句から特に「脱糞」ものとして15句を提示されました。私は原本に当って、あなたが悪い句・良い句とされるちがいの基準をどこに置いていらっしゃるのかを考えました。
どうもよくわからないのですよ。いいかげんなのではないか、ルールなんて無いのじゃないか、と思いました。

例をあげましょう。

 奈落より花舞ひ上がる吉野建(第1句)
 
 咲きみちて空に遊ぶや花の山(第2句)

第2句が「脱糞」の句とされましたが、どこが悪いのですか?うつくしい句境じゃありませんか。第一句と呼応しあってひとつの花醍醐のみごとなアンサンブルです。
第1句は逆にどこがいいとしているのですか? 第一、あなたはこの句の意味がわかっているのですか? 句意がわからずして批評するものではありませんよ。

咲きみちて花の屏風や吉野建(第5句)

これを「脱糞」の句としています。なぜですか? 第1句と第5句の趣向は双子のようによく似ています。しかしちがうのです。
さあ、答えてください、この集のキーワードともいうべき「吉野建」とはなにか? 知らないなら批評しないことです。私はわからない句はいいとも悪いともいいません。まして「脱糞もの」など愚弄したことはありません。身の程知らずが主宰づらをするほどみっともないことはありません。

④ ついでだからもうひとつ見ましょうか

田楽を手にぶらぶらと桜かな(第22句)
田楽の蒟蒻につく桜かな  (第23句)
蒟蒻で生捕りにせん花吹雪 (第24句)

ここは三句そろって「脱糞」です。
この集のちょうどまんなか辺りです。宴もたけなわ、このへんで俳諧の真骨頂「滑稽」を入れたいところです。酔いもまわって歩き出したいところ、同じことをなんどもいうのも酔っ払いの特徴、しかし句には同じことは言わない。三様におもしろがるのです。四句並んでいるとことはそこを行ったり来たりして行間を愉しむ、二句並んでいるところは二句の移りをたのしむこともよいではありませんか。
以上3件とりあげましたが、これだけでもこの「集」がいかにすぐれているかおわかりでしょう。
俳句の存在意義を謙虚にうけとめて愚弄するのではなくみずからの糧とする雅量をまず持とうではありませんか。

⑤   ところで悠さんは櫂先生を悪しざまに罵られるけれども、あなたのブログで「季語」の解説のあとにそのお手本として実作例を示す、ちょうど歳時記のようなコーナーがあるが、そこになんと長谷川櫂先生のお作がちゃんと「お手本」としてでくるんですよ。

鮎季(あゆどき)の山の重なる京都かな   長谷川 櫂

そのあとになんとわれらが主宰ドノが一句

鮎どきや三十六景雨の中          悠

櫂のは京都を「目の前にし」て詠んでいるから「京都」というテーマがはっきり見える。一方、悠のほうはアタマのなかでツクッテいるので、切れ字「や」で二分されており鮎と京都に焦点が分散し印象がとりとめのないものになっている。俳句は嘱目吟、といわれるのもむべなるかなという思いをつよくした次第であります。ミミクリーはダメですよ、師匠。
古今の名句名吟あまたあるなかでご自分の句をお手本として掲げるのはやめませんか? これにはフカ~イ理由もありますが別の機会に譲りましょう。

⑥   今回の分析をとおしてあなたには幼児性と母胎崇慕性があることがわかりました。幼児性は喜怒哀楽の情緒のコントロールが欠如していることです。母胎にたいするあこがれも幼児性の一面と思われます。母親への思慕の情は私もそうですし、悪いと言うのではありません。俳句の傾向として出ているというだけです。

 荒梅雨をはじく乳房やかくばかり    悠

イプセンの「人形の家」、女権運動の女闘士の句みたいですね。しかしこれがなんとオトコはんの句です。

幼児性でいえば、幼児はウンコやおならが大好きです。「脱糞」といいかえてもおなじことです。
⑦   それと「おともだち」というコトバも大好きです。
しきりに悠さんは長谷川櫂先生と私が「やあお友達だったの? 知らずに…」という表現をしています。おともだち幼稚園の園児なみの発言ですよね。小児病的でありますね。

⑧   それと今回の騒動のタネの「桜」にも異常な反応を示されています。「桜」の独占欲はたいへんなもので櫂先生のお作にたいしてもご覧のようなヒトに絶対に触れさせない、偏執狂乱状態となるのです。花見でどんな嫌なことがあったのか、考えればお気の毒なことです。

最後に長谷川櫂先生とはどんな方か調べてみました。現代俳句協会の「現代俳句データベース」です。
「代表作」として21句挙げてある中に

春の水とは濡れてゐるみづのこと

が、ちゃんとありました。知らなかったが代表作のひとつなんですねえ。

いい句がいっぱいありました。

 冬深し柱の中濤の音

 灰の上の灰は木の葉の形して

 せんべいの紙たべてゐる子鹿かな

人生悪いことばかりじゃない。すてきな句にめぐりあえたのは、悠さん、あなたのおかげです。篤くお礼申し上げます。