『心の水平線』~MindExpander 梅の「心のストレッチ」 -9ページ目

『心の水平線』~MindExpander 梅の「心のストレッチ」

心が「こって」はいませんか?「 MindExpander~心のストレッチャー梅」 あなたを心の水平線に御案内します。あなたの心を解きほぐし広げます。空を行く雲のように悠々と往きたいものですね。梅はAC、引きこもり、アルコール依存症他アディクションからのサバイバーです。

 



『心の水平線』~MindExpander 梅の「心のストレッチ」



 童貞をしっかり真面目に卒業したかどうか・・・

 早い遅いではなく。
 
 はじめに「そういうお店」とかで卒業しちゃうようだと、こりゃ後々問題が・・・。

 てのは、
「ちゃんと恋愛して」
 清水の舞台から飛び降りたつもりで好きな彼女に「この自分でぶち当たって」

 し~~っかり感じて、何なら「ふられて」鼻水の一つも垂らしながら大泣きに泣いたりして、
 泣いちゃってもいいから、また女の子好きになって、思い通じた相手と、二人がお互いに大事に思って、で、卒業する。

 そうであればいいんですが・・・。

 ここんとこで「自分ごまかし」やら「いい格好しい」とかで来ちゃうと、自分の間違いや失敗を認めず受け容れない体(てい)で生きて行き易いという気がするんです。

 かく言うあたしは、最初に付き合った女の子に自分から別れを切り出すほど
「自分が嫌だわ腰が据わっていないは・・・。」

 なが~~~~く童貞選手だったのですな。トホホ・・・。

 な~~~~~~んで皆あんなに楽しそうなんだろ・・・。
 19くらいからず~~っと思ってました。

 な~~~~~~んであんな風に気軽に女の子と話せるんだろ・・・。

 こっちなんか、もう意識しまくりで、しかもなんかそういうことってば「いけないんだ」とか自分の中にありました。
 子供子供してたんです・・・。
 でも純情とかってのじゃあないんですよ・・・。

 内心はぐつぐつと煮えたぎっているのに、
「良い子戦法で生きて来ちゃって自分で何かを摑もうとしてなかったのに、そのやり方を変えなきゃならない事に気が付けないお馬鹿で」
 そりゃ~~~~~~~~もう。
 頭から湯気出ちゃいそうな20代でございました。

 





 意識しちゃっていながら、て言うか、人間対人間の関わりが出来ないから性ばかり意識しちゃうことになってたんで・・・。

 んで、周りを見渡すとこれがまた、ちゃんと彼女と初体験して童貞君を卒業したのではなく
 「お店」で捨てた方や、ぐっと年上の方から強制卒業させられちゃったような方と言うのは、30代になっても
 「ガッツリと本物の恋愛を出来ないでいる。」ことが多いようです。

 AV(アダルトビデオ)にはまってたり、風俗で済ませちゃったり。
 まあ、大体そういう方は、「飲みに行く」「パチンコ」「競馬」と、そんなところで「ストレス発散」とか言ってるようです。

 何か自分に準備不足を感じていたり、家庭を持とうという気持ちが起きないんでしょう。

 
  《くじかれとるんですよ》・・・そういう方は。
  
   人生の比較的早い時期に・・・。
 
 20代も後半、或いは30代に入ってそういう感じで自分で処理しちゃってるってことは・・・。

 んで、パートナーを求め、付き合おうとか、イメージから貧困なんです。

 かく言うあたしも、ま~~~~~~~ったく
「結婚して家庭を持とう、とかイメージする事はおろか、思い付くことも出来ませんでした。」

 その上、まず恋愛以前に「人として女性と分かち合う事が出来ないんです。」
 いやいや・・・「女性に限らず、人と一緒にいること自体」苦手なんですよね。

 

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 そんなこんなで、そんなあたしがここへ来て結婚しようかというのは、考えたら自分的には青天の霹靂なわけです・・・。

 うっすらと心に浮かんでくるのは・・・
 
 もうお互いに子供が出来ないような年齢になってから、一緒にいられるパートナーを求めたってことか・・・なんて思うのであります。

 この年まで自分が抑えてたんだと確信しています。
 子供を設けるのも育てるのも拒否ったんでしょうね自分が。
 家庭を持つとかに対し怯えてたし、くじけてたし。

 だから辛かった・・・。
 寂しかった。

 結婚する事が=幸せでもないし、人それぞれに生き様も違い、生き甲斐や、何に幸福を見出すかは違いますが・・・

 あたし自身が、寂しくて辛いのに、自分で「そうしないようにしていた」事を考えると、
 カウンセリングなりで、その人が自分を生きる事を邪魔する生き方から進路修正できるよう、力を貸してあげられる人で在りたいと・・・。

 ま、そんなことを噛み締めるわけです。

その一方、70年代後半くらいから「同人誌」とかの「コミケ」「オタク」文化・・・。

 最近までアキバでコスプレとか・・・
 セックスは要らないという夫婦もあるようで・・・

 悲惨とか暗いとかではなく、軽~い生き方として「ありだ」という流れも出てきています。

 アドラーさんならどう仰るのだろう・・・この風潮。

 武田鉄矢は20年以上前に
 「お前たちぃ二次元じゃなく、生身の女にぶつかれよぉ!!」っとりました。

 
 ちなみにあたしは「お店組」でした(笑)
 帰りが虚しいんだ・・・知ってる人は分かると思うけど・・・
 俺、何やってるんだろ・・・って。
 でも!! 行きはけ~~っこうウハウハしてたんですよね(笑)
 酒で勢いつけたりして。

 そういうお店に最期に行ったのが○○年前ですか。


 《ちゃんと自分の感情を認め、受け入れ
 当たり前のことをあたりまえに、きちんと、する。》

 永らく「依存症だACだ」という物語から回復と成長を自分の内に見てきましたが、こうして物事はシンプルにおさまって行きました。

 「当たり前のことを当たり前にやる。」(童貞の話だけでなくですよ)
 
 それだけなんですよ。

 それが判り、受け容れ、自分を引き受けていく。

 そこに至るまでが辛いところなのです。




              MindExpander 梅


 
 実はフラメンコが好き(というより、パコ・デ・ルシアというスペインの国宝と言える天才ギタリストに憧れて)「コンデ・エルマノス」というスペインの手工ギターを持っていて手習いしていた時期がありました。
 コンデの両用(伴奏とソロ両方に使えるという意味)「黒」。
 亡くなったコンデの工房の長兄の作品でした。
 1~4弦までがオーガスティンのゴールド、5、6弦はサバレスの赤を張っていました。

30年前に80万で買ったこの愛器をアルコール依存症で「酒代の為に売りました。」
 馬鹿だったなあ・・・・・・・・・。

 アル中ですから指もまともには動きません。
 好きで始めたのに・・・嫌気がさし投げ出しました。

 ブレリアとソレア、ウェルバのファンダンゴという曲が得意だったんですがねぇ・・・(苦)

 画面は
 若きパコ・デ・ルシア。
 向かって左手はパコの伴奏で躍り出た、夭折の天才カマロン・デ・ラ・イスラ(カンタオール=フラメンコの唄い手)
 右手前は伝統的なトーケ・フラメンコ(ギターの弾き手)パコ・セペロ。

 踊りをバイレ、踊り手(男)はバイラオール、女性はバイラオーラと言います。
 手拍子を「パルマ」と言います。

 国を持たぬ流浪の民、ジプシー=ヒターノが、詩を造り、詩が歌になり、手拍子が出て、踊る者が出、伴奏にギターがつきました。
 フラメンコの簡単な成り立ちです。

フラメンコは「唄がまず在りき」なんです。
 カンテと言います。

 カンツォーネと語源は同じです。
 「ソング」よりも深い「唄」です。
 
 画面は「フェルガ」と呼ばれる唄い手とギターを家に呼んで飲む席に模されています。
 1968~70年くらいでしょうか。
 パコが弾いているのは、ブレリアという曲の「彼だけの変奏」です。

 ソロアルバム第二弾、「ファンタジア・フラメンカ」(1969 邦題 幻想)のブレリアの変奏が入っています。


 三拍子系で4小節一回り、1小節目の3拍目、2小節目の3拍目、3小節目の2拍目4小節目の1拍目と3拍目がアクセントで
 4小節めの3拍目から始めると「強起」になり、こういうリズムを刻みます。


 タツツ タツツ タツタ ツタツ 
 タツツ タツツ タツタ ツタツ (タが強く打つところです)

 これをコンパスと言います。
 コンパスには3拍子系と2拍子系があり、強く打つところが決まっていて、「決め」に繋がります。
 「オーレ!!ッ」ではなく「オレ~ィ」なのです。

下はカマロンとパコ、英国BBCテレビの動画でしょうか・・・73年くらいですかね。
 これがフラメンコの唄で、ヒターノが最も好む、ブレリア(激情を歌うと言うというような唄)という形式の曲です。




 

 








『心の水平線』~MindExpander 梅の「心のストレッチ」


先日ある方からメッセージをいただきました。


僕の書いていることが理解できていなかったようです。


忍耐、自己犠牲などを美徳とは一言も書いていません。


美徳ということ自体、不自然です。

自己犠牲は身勝手な独りよがりです。


「~ベキ思考」ではなく。


自分が全てと繋がっていることを感じ、生かされているという大きな視点に目覚めたなら


自ずと

 「自らを与える事自体が歓びになり、

  相手に喜んでもらうことが目的ではなくなり

 生きる活力、勇気の源泉になるという事実を伝えています。」


自分を大切に出来る人が、他人を大切に出来る人です。


自分を尊重出来なくて、どうして他人を尊重できるでしょう。


人間の回復についてこれからも綴って行きます。


 自分を受け容れ、好きになり、やりたいことを見つけて、輝いて行きましょう。

 

 そうなる道筋を綴っています。


 難解であるなら、私の筆力不足です。


 このようなブログですが、どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。


                                 MindExpander 梅

 


『心の水平線』~MindExpander 梅の「心のストレッチ」


 




 「空」という概念があります。
 

 「般若経」で初めて登場し龍樹菩薩(ナーガールジュナ)が「中論」で形式化した概念で、般若心経の色即是空のあの「空」です。

 仏教では「有」と「無」の両方の見解を退ける(いわゆる中道)と言われているようなのですが、この「空」ということを言う眼目の一つは

 「この世界のありようは、在ると無いというだけでは、捉えきれない」ということらしいんです・・・。
 
 有でも無(虚無)でもない空がこの世界の実相である。

 あるいは有と無に先立ついわば「生成の世界」が空であり、そこから有と無が共に生まれてくると言う発想が、空と言う概念の基本にあると思われるのだそうです。

 空の概念は、この世界、あるいは「物」や、「事」や、「わたし」や、「わたしの心」や「わたし以外の人々」・・・
etc

 本当に有るのだろうか(有)それとも無いのだろうか(虚無)という二者択一的問いに支配されていた時代に、「そういう問題の立て方自体を無効にする形」で出てきたと言うのです。
 (ふ~・・・やれやれ(笑)

 単に有るか無いかどっちかという答えでは駄目なんだと・・・。
「縁起(えんぎ)」という概念にも繋げて行かなきゃならないようなんですが、

 有ると思われてるものは「固定して存在しているわけではないし」(変化、崩壊し続けてます)、

 無いという状態も実は完全な虚無ではなくて「縁」によってはいつ有に転ずるかもわからない「潜勢性」を秘めているのですと。

 空と言う概念により、有と無(虚無)の概念が共に意味を失った、少なくともその意味を根本的に変更する事を余儀なくされたと言えるのだそうです。
 この世の森羅万象、この世界、自分、自分の心、周りの人・・・
 すべて空であると。

 いまやそれらのものすべては、完全に有るとも言えないし、完全に無いとも言えないのだと。

 量子力学の世界です。

 で、修行するうちにこの「空」を「虚無」と捉えてしまい、極端に走る修行者があとを絶たず「空病」と言われているのだと。

 あたかも全ての執着を取り払ったかのような状態に近づこうとする・・・。
 「三昧の世界」「無の世界」ともいえる境地への執着とでも言いますか、でも、そこにいては覚りに至れないのだと言うのです。

 これって、カルトに走りやすい若者達にある傾向です。

 (梅の地獄巡り Ⅱ という記事でこの感覚を持ってしまった方を書いています。)


 釈尊も覚る前にはそのような境地に居たらしいのですが、
 そこから現実に眼を向けて「あらゆるものを在るがままで受け容れる心」に大転換されたと言うのです。

 さて、何が驚いたって言うと、

 全ての物事、ありとあらゆる事に「固定化された実体は無い」となると、そして「空」を「縁起」という概念にもつなげていくと、

 逆に、「あらゆるものはつながっている」「あらゆることは孤立して存在しない、存在し得ない」ということになるわけで、 こう言えます。

 《私はあらゆる事象と繋がっている。
 私と関係の無い事象は無い。
 私はあらゆるものと友達である。


 全てが私でもあり、あなたはわたし、彼も彼女も、悠久の過去から久遠の未来まで私と繋がりがある。

 世界中で起こるあらゆることは「私の問題でもあり」、そうした世界に包まれ、生かされているのが私なのです。》

 これはアドラー心理学で「共同体感覚」と言われます。

 「おかげさま」ということですね。

 個人の健康のバロメーターという共同体感覚。

 かっての僕は、約束を守らず、何も考えずにタバコはポイ捨て、空き缶をそこいらに投げるような人間でした。
 あきらかに、共同体感覚が育っていなかったのです。

 口で感謝していますと言いながら、相手をおろそかにするような人間でした。
 それは本当のところ、この「生かされている」ということに心が向いていなかったからです。

 「生かされている」。

 このことが身にしみてわかる時、通勤電車で優先席に大股を広げて座る事は出来ません。

 「~べき」という考えで「自分を律しているうち」は、こういう他人の姿に義憤の怒りも沸きます。


 しかし、「真にこの共同体感覚に目覚めるとき」

社交辞令になっている「おかげさまで」という事の真の意味を知るならば、行動も自ずと変えられて行きます

 こういうときはこうしなきゃいけない、という謂いではなく

 自ずから周りと調和する行動に変えられていき、

共同体感覚の育っていない方を見ても「自分はこうしているのに、あの人たちは!!」という義憤の湧くような、実は自分勝手この上ない生き方から抜けて行きます。


 他人を信じ、不平不満の地獄から開放されて行きます。


 意外にも「繋がっている感覚に目覚めたとき、人は人自分は自分、となっていることに気がつくのです。」


 ・・・余談ですが(このブログの全てが余談ともいえますが(笑)

 あの北野武さんは浅草フランス座のエレベーターボーイをしつつ弟子入りした師匠「深見千三郎さん」からの教えで「トイレに入って汚かったなら必ずご自分で掃除してきた」と言います。

 それで誰かに褒められようとかじゃなく、そうするのが当たり前と・・・共同体感覚です。


 ちなみに武さんは師匠から言われた事を守り、世界の巨匠になった今も、何処に行ってもトイレが汚れていたら掃除し続けてきて、「それで多分今の自分が在る」と仰っていました。

 


『心の水平線』~MindExpander 梅の「心のストレッチ」



 空のように抽象的で、論理的な限界を指し示す概念についても、仏教はその概念によって現実解放される人がいたから出たこと、と考えるようで、いつでも「今ここにある現実の問題」
 良く生きる(素晴らしく生きるということではなく、生き切るという意味合いです)のに必要な個人的、現実的な動機があってこそ、仏教足りうるという立場のようです。

 わたしは35年間両親と口をきかず、不全感と自己評価の低さに苦しみ、自分を傷つけ続けました。

 

 自分を生きたくて、いろんなものを求めました。

 プロテスタント信仰からアドラー心理学まで、そうでした。
 
 まず自分が自分の足で立ち、共同体感覚に目覚め、生かされていく。
 そのための学びはこれからもたくさんするでしょう。

 そして「おかげさま」で、今では物事をシンプルに捉えられるようになり、「自他の境界(バウンダリー)」ということについてもしっかり持つことが出来ました。

 関係の在り方に捻りが入り、相手の心配をし世話を焼くことで自分の不全感を埋めていく・・・母がそうしていたように、支配とコントロールの関係にしたがる自分が居ましたが、共依存の概念と、「親換え(いずれ詳しく書きます)」によりこの苦しいところを抜ける事が出来ました。
 

 相手の心配と世話焼きではなく、自分のやりたい事を感じて認めてやる・・・。
 自分を信頼してやってなかったんですよね。

 自分が大嫌いでしたが、こんな自分もいいじゃないか・・・

 そう思えるようになり、徐々に自分に対する見方が変えられてきたのです。


 「自分でも他人でも、駄目だしをして悪いところばかりを見ると、事実《そこ》が大きくなっていきます。」

 良い出しと「リフレーミング」により、「長所が伸び、その人本来の良さが引き出されて行きます。」

 そうなれないのは、減点法で駄目だしされてきた過去からの負債と言えます。
 

 他者の評価や視線の下に生きていたんですよ。


 今や自覚したなら、このように生きることが叶います。

 主体的に自分の人生を立ち上げて、自分に無いものや事を嘆くのではなく、自分にあるもので感謝しつつ、「今ここでフルに生き切る」。
 
 それが「往生する」ということなのです。


 MindExpander 梅

 ~出来なかった。
 ~頭では判るんだけど。
    ↓
 ~しなかった。
 ~判ってても変えない。

 これが事実です。

 

『心の水平線』~MindExpander 梅の「心のストレッチ」




 「両親がああじゃなかったら・・・」と何年も思っていました。


 母からの共依存「子離れしようとせず、自分と息子の僕を地続きにして入り込んできました。」

 父の無関心・・・(実際には彼なりのやり方で出来る事をしてくれていました。)から


 「母と同じことを周りの子供にして(他人の領域に踏み込んで)嫌がられていた自分。」

 「キャッチボールしたり、家族で遊びに行ったりした事がなく、こんな家庭を持ちたいとか、子供が欲しいとか・・・

 全く思えないこと・・・。」

 しかし、
 「行き詰っているのは自分で、なおかつ
  被害者意識が抜けないうちには受け容れられなかった事実・・・

 そうしてるのは自分ということを受け容れられるようになったなら

 むしろ《それは自分がやっている=自分の責任》という事実は

 大きな慰めであり、確かな希望に変ります。」


 何故なら、「自分がやってきた事なのだから、自分が変えられる」のです。


 これが腑に落ちるとき。

 認め難い自分を認め、受け容れられた時。

 言葉の真の意味での「癒し」が起き、私たちを変えます。


 「自分が好きでやってるんです。」

 そこから「認め難い自分を受け入れた後には大きな転回が人生の上で起こります。」

 
 「親がああじゃなかったら・・・」
 こう言っている間は
 「自己嫌悪」「自己否定」の生を生きています。

 自己嫌悪というのは「あらかじめ自分に対するイメージがあり、その上で、俺はそういうんじゃない!」と、

 失敗したり惨めだったり、弱い自分を認めない事です。

 真の成長につながりません。

 また 「親(養育者、或いは悲惨な出来事や葛藤の上で、自分が決め込んだ《加害者》の側)が主人公で自分が脇役です。」

 「他人からの評価や目線が主人で自分は奴隷です。」

 得よう得ようとして命をすり減らす生。
 求めてもきりがない「依存症への生」。



 その「生」から


 「自己受容」「自己承認」「自己信頼」

 「自分が自分の親になり(親離れして)自分を育てて行く。」

 「他人の視線に振り回されずに、自分が自分物語の主人公として生きていく。」

 与えることで満たされて行く生。
 与える事そのものが喜びで「見返りが眼中にない生。」


 転回するきっかけとして
「一般には 嫌な事、悲惨な事、悪い事」が人生の上で用いられます。

私の場合にはアディクションでの「底つき」と

それに遡る「機能不全家族の問題からの、健全な人間関係を構築できない生き辛さ」の35年間がありました。


苦しく、悔しい日々でした。


しかし、それがなければ私の「回復」、人間の回復は有りませんでした。


 それを《災厄の顔をした祝福》と言います。


『心の水平線』~MindExpander 梅の「心のストレッチ」



 「良いこと」「悪いこと」と物事を二つに分けて考えているのであれば、それは浅はかな人生観です。

 生まれてからこの世を去るまでの人生を一曲として考えるなら

(生まれる前には両親たちの待望の序曲も在りますし、没した後も、その方の生きた軌跡から多くの方が余韻を奏で楽しみ糧にもします。)

 フレーズごとの「コード進行から音が外れていたとして」

 一曲として聴くなら「最後には必ずつじつまが合い、必要なテンションであったり、シンコペーション、外れた感、躓きでもあります。」


 過去から未来までの全ての物事が繋がっていると言う視点と共に

 このような視点も持っていただけたなら
「ACやアディクションからの 回復とは何か?」
「成長とは何か?」についても意識が変るはずです。


 われわれの回復、個人の回復は、人間の回復、人類の回復でもあります。

 誰しもが持つ「ほんのりとした寂しさ」についても
「それを何とかしたい・・・取りたい・・・。」一辺倒では間違いと言えます。

 その「ほんのりとした寂しさ、ACの持つ不全感は 個人個人が良く味わうべきもので
 三尺三寸箸の話のように、互いに与え合うように生まれついている我われ人間と言う実存の
 《自由意志でいかに生きるかに任されている部分》とも言えます。

 我々は「薬缶の注ぎ口」

 満たそうとして口から水をいくら足しても一杯にはなりません。

 唯一満たされるのは「注ぐ時なのです。」

 その時には口から溢れて自分は満たされています。


 一旦破綻して回復に向かう以前の
 「順調だったように思えた日々も、実は転回点への準備だったともいえるのです。」


 小さな「転回点」を我われは毎日人間関係の上で迎えています。

 腹を立て、憎み、ものに出来ていない事の方が多そうです。

 「ありとあらゆる経緯があって、今ここに自分が居ることも覚えておきたいものです。」


 忌み嫌われ、二度と有ってはならない「事件」「事故」・・・。


 それらもあって、私たちは今、ここに居ます。


 この事実にも想いを馳せて生きたいものです。


 感謝しかない人生。

 与え合う世界。


 そこに向けて私たちは回復し成長します。


 


 


次回もMindExpander 梅がエスコートします


                   MindExpander 梅