『心の水平線』~MindExpander 梅の「心のストレッチ」 -10ページ目

『心の水平線』~MindExpander 梅の「心のストレッチ」

心が「こって」はいませんか?「 MindExpander~心のストレッチャー梅」 あなたを心の水平線に御案内します。あなたの心を解きほぐし広げます。空を行く雲のように悠々と往きたいものですね。梅はAC、引きこもり、アルコール依存症他アディクションからのサバイバーです。

 子供は「夫婦の愛の おこぼれで育つ」という人がいます。

 その意味は
 まず、夫婦がお互いを「尊敬し合っているということ」。

 お互いを尊敬し合えるということは、お互いが
「弱い自分、欠けのある自分も受け容れられている」ということです。

 その上で、ご夫婦が「人としての適切な距離感を意識して互いに関わっている。」という状態ですね。

 これが
 互いを尊敬しているのではなく、しがみつき、操作し合うようですとお互いを尊敬する以前に
 「自分自身を見放している」可能性があります。

 それが共依存に繋がります。

 では、何故、その人は自分を受け容れられないかと言うと

 「親から一個の人間として尊敬されていなかった。
  在るがままの欠けがある自分で受け容れられなかった。
 (子供がそう感じ取らざるを得ない状況に在った)」

 と言えます。

 これが「世代を連鎖する機能不全家族の悪しき構図の一番大きなものです。」

 

『心の水平線』~MindExpander 梅の「心のストレッチ」



 私の父と母は「お互いの言い分を押し通そうとして譲らず、互いに理解しあおうとする努力に欠ける方々でした。」

 まだ元気で生きておりますが。

 例えばこんな具合です。

母 「あんた! コロッケにソースかけすぎなんだよ!!」
父 「いちいち!!いちいち!!
   働きの少ない者にはソースまでかけさせないのか?!」
母 「そんな事言うてないやろ!! なんでそうなるんだよ!!」
父 「給料の交通費の事までグダグダ言いやがって。
   お前が家で何か言ってそれが変わるのか?
   こっちは機嫌よくこの条件でやってるんだよ!!」
母 「そんな話ししてないだろうっ!!」

 まあ、子供の頃から当時の茶の間の「ちゃぶ台の会話がこれでした」

 母が「コロッケにソースをかけすぎ」と言った真意は誰にもわかりません。

 ① そんなかけたら身体に悪い。
 ② そんなにかけたら コロッケそのものの味わいがなくなる。
 ③ ソースがもったいない。
 ④ とにかくオヤジのすることの一つ一つが気に入らない。

 言える事はこの時「親父」は③と受け取って居たということで、それには上記の会話(ケンカ)から判るように
 それまでの経緯が既にあって「おふくろの言うことに対しあらかじめ色眼鏡がかからざるを得なくなっている。」ということです。

 で、一緒に過ごし、食事をしていた僕が何を感じていたか。

 怖かった。

 生まれてきても何にも楽しいことはないし、大人になっても楽しいことはない。
 何にも考えたくない。
 この人らには自分の思うことや考えを言っちゃいけない。

 そんなことを感じていました。

 僕は「大優等生、完璧な良い子ちゃん」になって行きました。

 そういう両親の関係が原因、とかは言いません。
 本当のところは判らないんですから。

 言える事は、僕は両親と同じように「自己評価が低い人」になりました。

 「自分自身の存在そのもの」と、
 「何が出来るのかという、自分の能力についての評価です。」


 こんな会話(ケンカ、やりとり)が為されていた頃、オヤジは40代のはじめで働き盛り、営業部長として精力的に動き回っていたようです。

 「塩辛いものや味の濃いものを体が欲しても当然だったでしょう。」

 また、こんなやり取りをするようになるまでの経緯として、父は大正生まれで
 「男は外で仕事、女は家を守り子を育て、朝は味噌汁を作って送り出し、黙ってついてくるもの」という勝手な信じ込みを生きていたという経緯がありました。

 一度たりとて、まともに子供である僕の気持ちを聴いてくれたことも、人間対人間として会話が成立したこともなかったのです。

 父が勝手に思い描く「人生こうあるべき」を押しつけられてきました。

 母は僕が9つの頃から父に対する愚痴を垂れ流しにしてきましたが、そうならざるをえないほど、家族と交流を持たない。
 持てない人間でした。

 10人兄弟の4番目で親から構ってもらえなかった人らしいのです。
 早くに死んだ兄弟もいたらしいそうです。

 独立独歩の人ですが、子供や妻とも交流を持てないほど「自尊感情の低い人」。

 8つ年下の妹が4つの時、休日に遊びに連れて行くと自分が言い出しながら
「一緒に行ってくれ。 どう接したらええか分らんねん。」と頼まれたことがあります。
 僕は友達と約束が在るといったのに無理に連れて行かれ、挙句の果てにボーリング場に僕と妹を残して
「ボーリング場の人に頼んどいたから、遊ばせといてくれ。
 俺、近くのお得意さんのとこに行って来るから。」

 ・・・唖然。 

 どう接したらもクソもないじゃないか・・・
 自分はお得意さんのところへ遊びに行きたかっただけじゃない。

 何年かして自分がバカにされていたと感じました。


 


  子供が人として社会と調和して「自分を生きられるようになる」には
「両親がまず、自分自身を受け容れ、互いに尊敬しあって生きているかどうか。」

 それって大きな要因なのです。

 何故なら「夫婦が自分たち自身を尊敬できていなければ、子供を尊敬出来るわけないのです。」

 
 ただし、自分の生き辛さを解消していくには「親がああじゃなかったら・・・。」
 といつまでも言っていてもどうにもなりませんよね。

 気持ちを吐き出す事が出来るようになったら、徐々に自分の事として
「自分の偏った認知のみの単線の生き方から、複線の生き方へ」進路修正していけばいいのです。
 そして、弱く欠けのある自分を「自分が受け容れること」

 自分に駄目だしせず、共感して「良い出し」「リフレーミングしてあげましょう」
 成長を信じ、見守ってあげましょう。

 

 

 私たちが投げ出さない限り、人生は必ず私たちに応えてくれます。

 今苦しくても、必ずうまく行き、この過去も現在も糧となって、「それがなければ叶わなかった」
 この人生をより深く味わえ、多くの方と「愛を与え合う事が出来る」明日に繋がっていることを知り、信頼しましょう。

 それは事実です。



 次回もMindExpander梅がエスコートします



   MindExpander梅



『心の水平線』~MindExpander 梅の「心のストレッチ」


 


 電話で古い知り合いと長話をしました。

 僕と同じような悩みを抱えた男性。
 彼が言うに「もう周りの状況や人に煩わされない処まで行きたい。」

 この方の言っていることは、人がどう言おうが状況が困難に見えようが自分を貫く、という内容ではないのです


 実生活でうまく行かないから、その苦痛から逃れたいという方向で「世を捨てたい」
 そう言っていたのです。

 実は僕がそうでした・・・。

 こうなるのは実生活で「何故うまく行かないか判らない」

 「どうすればうまく行くか判らない」から。

 結論を言うと、

 「自分だけの考え方、物事の見方から一歩も出ようとせずに、学ぶ事と、自分を育てることに怠惰なまま、実生活に絶望しかけている」のです。

 ここにいると、何をやっても虚しい・・・。

 常に、自分の準備不足を薄っすらと感じている。


 こちらから見たら才ある人なのに

 「自分には何にもない・・・」と言います・・・。

 それが「イエス・バット、古い自分に引っ張られている証しなのですが・・・。」



 うまくいかない、という書き方をしましたが、

 「何がうまく行って、何がうまく行かなかったか」なんて誰にも

 その時には判らないのです

 
 出来る事をして結果を受け容れ、次に生かしていくだけでしかない筈なのですが・・・。

 

 でも、「此処」「其処」に居るとそれが判らない。
 
 「頑張るんだ!!」と自分を叱咤しても、

 「とうに自分のやり方が破綻しているのだから、ますます惨め、無力感、自己嫌悪に落ち込んでいくのです。」

 僕は10年前にアルコール依存症者の集いで体験談を話した事がありました。
 何人もの依存症者が語った話は、性別も年代も経歴も全く違うのに、どれも自分の事のように感じられました。
 みな、同じところで躓いていると感じられたのであります。

 その時、僕が話したのは10代から感じていた生き辛さ。

 「サイドブレーキをひき、フットブレーキを左足で踏みながらアクセルをふかし、エンジンは唸りを上げつつ、タイヤは土くれや砂利を飛ばして自分のボディを傷つけ、その場でのたうつようにして、一向に進めない車のような辛さ」という感覚だった。

 よく「その感覚」を言葉にしてくれた、と後で握手を求めに来てくれた仲間が何人も居た。
 僕はこの言葉を自分で語りながら、もう一つ深い意味を判らずにいた。
 自分から出た言葉の本当の意味が判ったのは、2年ほど前のことでした。

 単に「制動が掛かっていて」「前進しにくかったのじゃない」
 サイドブレーキとフットブレーキをかけながらアクセルをふかしていたのでエンジンが唸りを上げてたのじゃなかったのです。

 「次ぎのギアに入れるすべを知らなかった。」

 もうセカンドどころかサードに入れていて然るべきところを、えんえんとローギアで引っ張っていたのです。

  制動が掛かっていて進みづらいと感じていた間は、「誰かに制動をかけられた」と思いこんでいた。

(もちろん、誰かに制動を掛けられたと言っても、しょせん、ブレーキを踏んでるのは自分の足なのです・・・。

 交流分析に言う禁止令とはそういうことです。)

 ギアチェンジをしていなかったのだと気がついた瞬間

 

 「それは自分が学び、自分でギアチェンジしていくしかない事」と受け容れられたのです。

 とは言うものの、その人が世界を見る色眼鏡は、行き詰れば行き詰るほど偏りを強化します。
 と言ってもそれも思い込みなのですが・・・。

 





 電話で長話をしてくれた方は、もうそんな事したくないんだとハッキリ言ってくれました。
 そんな風に色んなことを考えられないし、それよりも、欲望みたいなところから脱却したいのだと。

 僕もそうだったが、こうなると第三者からの、その人への肯定の言葉すらが、当人にとって苦痛になる。
(励ましなんてもってのほかだ。)
 自分が嫌で嫌でたまらない処まで行っている。
 力を失っている。

 

 「君、自分のことそんな風に駄目だ駄目だ言うけど、僕から見て、こんなに良い処があるよ。周りの人もそう見てると思うよ。」
 「いや。 梅さんだから、そう言ってくれたら一応その言葉は耳に入れるけど、もう、そんなことも他人から言われたくないんだ。」

 こうなるとそこ(煮詰まっている自分だけの色眼鏡の世界)から抜け出すのは、自力じゃあ難しくなってくる。

 

 誰か他人に対して「苦手」と感じているうちは「一応相手の存在は認めている」。
 ただ「なにか近寄りたくない。ちょっと距離をとりたい。」
 第三者が、その苦手な他人を評して「こんな良いところのある人だよ」
 そう話すと一応耳にはするのです。

 「それは判ってるんだけど」・・・。

 
 「嫌い」とはっきり言葉にするところまで行くと、

 もはや相手の存在をそのままではもう認めません。

 「あいつ、こういうところあるだろう? 嫌いなんだよ。」
 

 相手の一部を消したい。容認しない。
 第三者がその人を「こんな人だよ」と肯定すると、
「いや、そんなことはない。俺はそう思わない。お前、知らないだけなんだよ。」 と
 もう話を聴く耳はありません。

 
 「憎悪」というところまで行く。
 「殺す。あいつの全てを消す。」と言葉にまでしてしまう。
 

 第三者が相手を肯定的に評すると、
 「お前、あいつの味方か?! んじゃお前も敵だな!」
 話を聴かないばかりか、もはやこちらを「敵にする」

 

 更には「こっちが殺られたっていいんだ。 あいつも殺る!」
 我も彼も滅びよ・・・。

 極まって「殺意」となり、表裏一体で「無関心」が在ります。

 
 この構図は「対他」だけで当てはまるのではないのです。
 

 「対自」でも全く同じように当てはまり、

 実は「対自」でこの構図に落ち込んでいるからこそ、誰か他人、相手に同じ構図を当てはめて見ると言えます。

 自分自身に対して「消し去りたい」から
「無関心」にまで至る時。

 「生きる力=勇気は失われています」

 自分自身への「無関心」「消し去りたい」への対応として、他人への「誰でもいいから人を殺してみたい」があります



 長話した相手にとって「梅さんだから」、話しを聴いたと・・・。でも、
 「既に自分を憎悪するレベルに近いのです。」

 外からの直接的な言葉、働きかけが彼の閉ざした心には、今、届きません。

 こういう時、人は「スピリチュアル」「宗教」に向かい易くなります。

 好きに信じればよい・・・という人が居ます。

 僕はそうは思わない。

 「そこに走る前に」「やることがある」

 この世で肉体を持った人間として、現実の社会の中で充分に生きていく。
 そのために「学ぶ事」「取り入れること」「それで自分を育てなおす事」

 これをしないで、スピリチュアル、宗教に走る時に「逃避と言い訳」にしてしまう。

(僕自身もそうだったのですが、修道院に入りたいと願う方・・・
 あの、オウム真理教の高学歴でありながら社会生活に適応できなかった方たちが軒並み幹部だった事。
 皆、現実の社会で自分を生きることに躓きながら、
《ギアチェンジは自分が学んで取り入れ自覚して行うしかない。》という事を考えず、
今までのやり方のみで一気に《楽になりたい》《これやってればOKなんだ》に飛びついてしまう姿、なのです。
 実生活と理想が合致してるのだから本人達は幸福感を得るだろうが、それはゾンビに近い。
 提供された幻想にのめり込んでいるのだから、それは薬物中毒と同じ。
 僕自身がそれを求めていたから言える事なのです。)

 つまりアルコール依存症他の、依存症、嗜癖、アディクションと呼ばれる事。

 全部、自分を育てることをしないで、手っ取り早く手に入る「的外れでお手軽な刺激」によって、「自分の眼をくらまして」いるのです。

 逃避。

 手軽な事を考える前に、やることがあるんです。

(それが判らないからそうなるのですが・・・)
 
 他に考え方も見方も生き方もあり、自分の色眼鏡だけの世界にとどまらないと意識する事が必要です。

 
 「どうすれば、この現実の社会で自分は今までと同じ事から抜けて自分を実現できるのか?
 今までの物事の見かただけじゃ既に立ち行かなくなっているのだ。
 じゃあ、何かを取り入れ今までのやり方を変えていけばいいのだろう。
 自分が変ればよいのだろう。何を取り入れ、何を変えればいいのか・・・。

 他人を変えるのではなく、自分が変って状況を変えればいいのだ・・・

 この生き辛さどう自分のうちに受け容れ、希望と勇気につなげて

 現実をどういう形で自分の内に落とし込み、気分を変えていけるのだろう・・・」 と。

 行き詰っている自分の頭だけじゃそれは「手に余るでしょう」

 「違う考えを持った他人との出逢いが自分を変えるきっかけになります。」

 「出、逢う」、というのは「それまでの自分の考えに固執せず、出て行って、積極的に自分から取り入れていくこと」

 それこそが「自分だけの色眼鏡の外の世界」のやり方を取り入れ、行き詰った現実に対応していく道への第一歩です。

 「寛恕する」という言葉が日本にはあるのです。

 かんじょ。

 御寛恕下さい、と言うと

 「察して赦してやって下さい。」・・・。
 
 この寛恕の「恕」とは「ゆるす」と読んで、

 「相手の心に添ってみる。沿ってみる。
 その上で物事を見つめなおす。 そして、新しい関係を造る、という意味なのだそうです。」
 寛恕というのは「赦す事」ですが、「相手の心に添って受け容れる事」。

 自分を行き詰らせている色眼鏡から、相手の見ている世界に想いを馳せようという言葉こそが「恕す」。

 自分の見ていること、感じた事、受け止め方・・・
 それだけが全てではない。
(認知療法に通じる根本的なことなのです)
 

 それに気が付けるかどうかは、自分次第。

 自分へのものにしろ、親や誰か他人、過去の出来事へのものにしろ、
「憎悪も恨み」も、「そのやり方で、そこに居続けたい自分が使っている、自分への眼くらまし」


 イエス・バットの謂いで

「自分を同じところ、同じ生き方、同じパターンに釘付けさせようとする

悪しき構図、本末転倒への誘い水なのです。」

 

 まずは、それを手ばなせたら、自分を始めるスタートラインへの道がが見えます。
 長話しをした方・・・それは俺自身だったろうと思えます

 

 恨みも憎しみも、他人に向けているようで「鏡のように自分に向けているのです」

 自分を生きたければ、手ばなして、赦すことを選択するのです。


 赦す事に焦点をあててしまうと「それは辛い」となるかもしれません。


 「自分を引き受けましょう。

 あれがこうだったから、こうなった・・・ではなく。

 今、こうなのは、こうすればいいのだ。」と。



 今を生きるにはそうして、自分自身を引き受けていくことです。

 いつだって、誰にだって、それは出来るのです。
 


 

 次回もMaindExpander梅がエスコートします。


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 世の中にはショッキングな事がたくさんあります。
 知らないだけで、とんでもない事が行われています。

 二つ、僕が当人から聴いた事を書きます。

 9年前あるところで聴いた20代の女性の話し。

 「高校の時、同級生の男の子を自殺に追い込んだ。
  相手の机に使用済みの生理用品を入れて、そいつが女子便に入るのを何度か目撃したと偽証した。
 そしたら、首吊って死んじゃった。
  ついこないだ、いらいらしていたので、久しぶりに又おんなじことやったんだよね。
 電車で横に居た会社員を痴漢に仕立てた。
 相手は40代の課長さんで、泣いて本当のことを言ってくれってあたしに懇願したけど、やりはじめたらそんなの引けない。
 あたしはこれからもこういう事するんだろうな・・・。」

 聴いていて愕然。
 いかに聴きっ放しとはいえ・・・、これは確信的に人を貶め殺している人間じゃないか。
 アディクション持ちの人格障害の方でしたが、こういうことを聴く時どうにもならない気持ちになります・・・。




『心の水平線』~MindExpander 梅の「心のストレッチ」



 7年前にアルバイト先で一緒に働いていた20代の男の子。
 バンドをやっていてパツ金のロンゲでかっこいい。
 気持ちの良い子で、一緒に仕事をして楽しかった。

 彼も機能不全の問題から「助けて」を言えない人で、倒れるまで仕事を続け、倒れる事で休息をとる人だった。

 その彼が「梅さん、ここよりいいお金になるバイトがあるけど、やります?」
 訊いて来た。
 内容を聞いて驚いた。

 「月一くらいですけど、死体を捨てに行くんです。
  組織関係の人から依頼があって、一回に100万です。
  もう6回くらいやってるんですけど、独りじゃ出来ないんですよ。
  運転してくれる人と、もう一人、三人でやるんですけど、一人抜けちゃって。
  見つからなきゃぼろい話しですよ。」
 だそうで。

 この子は各種ドラッグの販売もやっていた。
 自分じゃやらない。
「あんなのやるのアホですよ。」と笑っていたのを思い出す。
 冷たいのでも熱いのでも、梅さんなら初回無料にしときますと

 他に右翼とは名ばかりの暴力団と付き合って借金取りをして追い込みをかけまくっていた子。
 老人だろうが平気でボコボコにしていました。
 
 脱糞物のAVに出てた女の子。

 完全に機能不全家族の問題で行き詰まり、性的に逸脱した問題行動を早くから持っていました。

 ドラッグ愛好家でもありましたね。



 アルコール依存症で入院先の隔離病棟のその中の通称「ガッチャン部屋」
 つまり拘束着を着用させられて拘禁されてしまう部屋で、幻覚を見つつ抜け出して自分の手の指を二本食べちゃった人。

 入院先じゃ他人のヘアトニックを盗んで飲んだと(アルコールが入ってますので)。

 皆さん、御自分の感覚だけで煮詰まり、他人への共感やら、生かされてここに在るという感覚から思い切り離れてしまっていたのを思い出します。

 人間はその人が思うようになり、自分が思い描く自分に相応しいところに行ってしまいます。


 ご本人たちには「そこは別段居心地の悪いところでもないのです。」


 地獄とはそうしたものなのでしょう。

 引き寄せの法則とか以前に「自分の考え方、認知に歪みがある」ことに気がつくことが出来るかどうかが、
 回復への道に踏み出せるかどうかのポイントでしょうが・・・。

 これ、人がどう言ってもどうにもならないんですよね。

 その人が底をついて、気がつかざるを得ない時が来るのを待つしかないという見方も出来ますね。


 イエス・バットの話もそうですが、ず~~っとおんなじことやりながら、人の言っている事を聞き入れようとしないとドンドンこうなって行きます。

 くわばらくわばらです。



 写真は ヒエロニムス・ボッシュ(15~16世紀初頭にかけての大画家、オランダ生まれ)の作品。

 劇画「ベルセルク」の異次元の魔物、とりわけ「蝕」の描写にはこのボッシュさんの魔物たちがたくさんアレンジされていました。


 次回もMindExpander梅がエスコートさせていただきます。


 




  MindExpander梅


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 YES,BUT

 「そうなんですよ~、自分もそう思います。
  でもねえ・・・そうも行かないんですよ~。」

 イエス、でもしかし、ですね。

 アディクションは否認の病と言われています。

 「俺はアル中なんかじゃねえ。」

 でもアルコールに依存しています。

 「否認」です。


 自分がとことん駄目になり
 「それまでの生き方、やり方でどうにもならなくなった時
 人ははじめて、自分の状態を認め、受け容れます。」

 つまり、
「こうもしていられない」という想いが在って
「でもこれじゃあ、もう駄目なんだ」と悟った時

 「否認」から醒めます。

 頑なな自分の思い、思い込みを手放し、離れる決意に迫られます。

 アディクションの世界では、それを「底つき」と言っています。

 底をついたのだ・・・自分の行き方、生き方で・・・。
 ということです。

 この「底つき」ということに関しては「入院したら底つき」「どうにもならなくなったら底つき」というような間違った認識があるようです。

 本文をお読みいただけたなら、「底をつく」という事が

 《実はアディクションやアダルトチャイルドという、共依存からの反応で人生と自己実現に立ち行かなくなっている人々にだけ当てはまることではないとお判りいただけるでしょう。》

 全ての人はいつでも底をつく可能性があるのです。


 (何故なら全ての人は機能不全の家庭で育った=完璧な親、生育環境は無いといえるからです)



 それは、「自分の感覚を中心にした生き方で行き詰っているのに、その事実を指し示されても理解しようとしない生き方を人は生まれながらに選択している事実」と言えます。

 列車の運行に例えるなら「単線の生き方といえます」

 「複線にすることで行き詰まりを打破できる見通しが出てきます。」

 そのための学びといえますし、自分が変っていくということは

 YES,BUT、つまり否認ではなく

 YES,AND、 つまり

 「そうですね。 んじゃ、こうしよっか。」
 

 「認めるだけでなく、次なる自分への提案を受け容れる覚悟が在る。
  決意への準備が整っている。」

 ということです。

 否認の病、YES,BUT・・・ この状態に在る方は

 「自分を変えないための言い訳をし続けます。」


 コンフォート・ゾーン、偽りの楽園の罠にはまっている気の毒な人と言えます。

    MindExpander梅が次回もエスコートさせていただきます。                       

 


 写真はゴミ屋敷、アル中さん=アディクション=機能不全家族からの共依存反応で行き詰る方がよくやる自己主張です。

 あたしも飲みっぱなしの時には部屋はこうなっていました。

 檻に入れられた獣のように「単線=自分の感覚のみの生き方」で行き詰ってこのようになります。
 (この話もいずれ又)



   


         MindExpander梅


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『心の水平線』~MindExpander 梅の「心のストレッチ」




 人は人との交わりの中で生きて人になります。


 「人として」の自己受容も人との交わりの中で生まれてきます。
(考えれば当然ですよね)

 「それでも自分は大丈夫なんだ。」と

 養育者から「そっくり」「在るがまま」を受け容れられて

 自分を受け容れられるようになるのです。

 「条件付でしか受け容れられなかった人」は

他者をも条件付きでしか受け容れられない事でしょう。
 いや、そもそも自分自身を条件付きでしか受け容れられないでしょ。
(自覚して、自分を受け容れようとするまでは)

 つまり無自覚状態では

「条件をつけないで、あるがままを受け容れられたと感じて育った人ほど《いびつな情》という自分の側に固着した思いではなく

相手を尊重し、生かす方向に自分の《命》を注ぐ事が出来るのです。」


  しかしながら、人は「無自覚」なままで生きていくことは出来ません。


 自分の思いを誰かに与えるにしてもです。



 誰しもが在る「システム暴走状態に近い形」から

 「言葉の真の意味での愛を注ぐ」というところに移行するには、実は大きな河があって渡らねばならないのです。

 それは、生まれながらの

 「まんま。そのもの。」「自分だけの世界理解」で無自覚に自分を押し通している処から。
 「自分に気がついているか」「自覚的か」という処への大河と言えます。

 それに、誰だって少しは「愛して物語」を引き摺っていますからね・・・。

 (僕は苦しんで、憤りと恨みと羨望にのた打ち回る40年を過ごしましたが、こういうことについて見通すことが出来るようになれました。
 本当に感謝しかありません。 )


 人が人を「言葉の真の意味で愛する」って、大変な事なのです。

 機能不全家族の問題で生き辛さを抱えておられる方・・・

 養育者たる親への想いが多々あることでしょう。

 恨みもあるでしょう。

 

 また親御さんについては御自分を責める方も居るでしょう。


  しかしね・・・完璧な親なんて居ないんですよ。


 


 無自覚で、共依存と所有物化に満ちた思いで、いびつで自分勝手な想いだったとしても、実際それで

 「僕らはこの世に生み出され 《生存》を守られた事を忘れちゃいけないのです。」

 よしや 、その「情」の根底には、

 「それを子供に注ぐ事で自分が生きる活力を得ていると言う逆説があり」
 「それに意地汚いだけだとしても」
 
(それすなわち共依存と言う。

 そういう親は子供を《信頼》するのではなく、
 自分の思惑に向けて《信用》しようとする。
 信頼は相手に相手の事を任せて見守る。
 信用は自分の思うところを相手が履行する事に拘泥している。)

 その人たちの中で、その不細工でゆがんでいる思いもまた、枯れることなく私達に向けられて、与えられ続けて来たのです。

 だから僕は
 簡単に「愛という名の支配」とは言わないのです。

 《人が人として》次の世代、未来に繋げていけるように子供や誰かに伝えていくには・・・

 真に「愛するには」!

 枯れることの無い与え続ける思いに支えられていても

 知るべき事が在る。
 学ぶべき事が在る。
 そして技術が要る。


 それは愛する相手の事を知るに先立って、「自分を知ること」
 愛する相手とのコミュニケーションを上手にとる方法を学ぶに先立って「自分自身と和解するすべを学ぶこと。」
 愛する相手に自分を与える技術に先立って、「自分との付き合い方に習熟する事」
 僕はそれを伝えたいのです。

 そして、自分の見ている世界から、もっと大きな世界に想いを馳せていく事。
 想像力が私たちには必要です。
 
 世代を越えて連鎖する悪しき構図を断ち切れるのは「愛」ですが、
 それは無自覚に自分の感覚で生きているだけでは見出せる事ではないのです。

 人生に偶然は何一つありません。

 この駄文をお読みになった方が、自分たちは「大きな流れの中で同じところを目指して出会い」

 「言葉の真の意味での愛について」
 「伝えていく命について考える機会を持ったのだと感じていただけたなら」

 MindExpander梅 も感謝です。

 次回も梅がエスコートさせていただきます。


            MindExpander 梅


『心の水平線』~MindExpander 梅の「心のストレッチ」