次に、小谷山のいちばん高いところは、
いつから「おおづく」と呼ばれていたのでしょうか。
結論から言えば、それは遅くとも戦国時代からのことで、
織田信長の実録的一代記
『信長公記』の元亀年間(1570~73)の記述には
しばしば「大つく」と見えています。
また、『長享年後畿内兵乱記』には
六角定頼が大永5年(1525)に
「浅井城大津見」を攻めたと記されています。
「大津見」は「大津具」の間違いでしょうから、
やはり「おおつく」と呼んでいたことが知られます。
大永5年といえば浅井亮政の台頭期ですから、
小谷山のいちばん高いところは、
いちおう
浅井氏三代の最初期から「おおづく」と
呼ばれていたことがうかがえます。
それでは最後に、
なぜ小谷山のいちばん高いところが
「大築ヶ嶽」と呼ばれたのでしょうか。
その字面から推測すると、
おそらく山上で大工事がおこなわれ、
なにかが「大いに築かれたこと」に因むのでしょう。
その候補のひとつは、
奈良時代に建てられたという大嶽寺でしょうが、
歴史学・考古学では大嶽寺そのものの存在が証明できません。
確実なところはやはり、浅井氏が砦をつくったことです。
亮政ないしそれ以前の浅井氏が砦を築くため、
小谷山頂を大工事したことに因んで
「大築嶽」「大築ヶ嶽」、そして「大嶽(おおづく)」と
呼ばれるようになったと考えられます。
【大嶽から見た竹生島】