「そっちがその気なら・・・!」
と肚を決めた宝田は、26日の午後から、孤軍奮闘しての引き継ぎ書作成に取り掛かり、御用納め前日、27日午後の、役所では毎年恒例になって居る職員全員参加での大掃除の時間も、独り、周りの職員がガラスを拭いたり、机を移動して掃き出したりする最中も、その動かされた自分の机にしがみ付いて、それに没頭したと語った。
「どうせ、明日までで『此処からおさらばするんだ・・・!』と想えば、誰に何を云われようが、痛くも痒くも無いですからねえ・・・!」
と悪戯っぽく笑いながら云い、
「尤も・・・、みんな、俺の状況が判って居るから、誰も文句を云う職員も居ませんでしたけどね・・・!」
と、皮肉っぽく笑った。
そして、そこから二日二晩をほぼ徹夜で費やし、遂には、
「今朝一番で、課長の机の上に、役所の罫紙で45枚ほどに纏めた引き継ぎ書を、叩きつけてやりましたよ・・・!」
と、気持ち快さそうな顔で云った。
その間も、黙って宝田に眼を向けて聴いて居られた紀子さんは、宝田が、
「だから・・・、ノン子さんにも寛さんにも、連絡する暇も無かったんですよ・・・!」
と云い訳するように云うと、
「馬鹿が・・・、無理して意地張っちゃって・・・!」
と突き放すように云われたが、その眼は、言葉とは裏腹に嬉しそうに笑って居られた。
寛さんも、同じテーブルに座って居られた他の4人の役所職員の人たちも、どこか居心地が悪そうに、幾分俯いた姿勢で宝田の話を聴いて居られるように観えたが、それでも、寛さんは、やはり何かを云うべきだと想われたようで、苦々しい口調で、
「それにしても、総務課も、酷いよなあ・・・」
と唸るように云われたが、宝田は、最早、まったく拘りの無い口調で、
「寛さん・・・、寛さんたちには悪いけど・・・、それが、役所って云うか・・・、組織ってモノですよ・・・!」
と達観したような云い方で云い、
「謂わば、俺は、役所側から観れば、一種の裏切者ですからね・・・!」
と苦笑いを浮かべ、
「裏切者には、仕返しをしたくなるのが、人情ってものでしょう・・・?
だから、今回・・・、俺に、考える余裕を与えずに、急に、『明後日までで・・・』と云ったのは、一種の嫌がらせのようなものだったんじゃ無いですか・・・?」
と投げ槍のような口調で云った後、
「でも、俺にしてみれば・・・、三年掛かりでやっと辞められることになったんですから、願ったり適ったりな訳でしょう・・・。
だから、今更、『そんな急に云われても、困ります・・・!』なんて、口が裂けても云いませんよ・・・!」
と笑い、
「だから、総務課長の前を立つ時は、『ありがとうございます・・・!』って、深々と一礼して、部屋を出たんですから・・・!」
と嬉しそうな顔をした。
その顔を視ながら、紀子さんは、先ほどまでの面白く無さそうだった顔を、いつの間にか穏やかな顔に戻しながら、
「どうせ・・・、あんたは、ああ云う処には居れない性格だったんだから・・・、辞められた事は、取り敢えず喜べば善いんだけど・・・!」
と云われた後、やはり釈然としないような口調で、
「それにしても・・・、たった三日で退職させるってのは、幾ら何でも許せないわよねえ・・・」
と云われながら、もう一度、寛さんの方へ眼を向けられたが、寛さんの眼は、それには何も返しては居ないように、尚子には視えた。
尚子は、男性陣のテーブルに座った公務員の5人にとっては、今は、宝田が、自分から云った
「裏切者・・・」
を前にしているような立場に変わってしまった訳で、その気まずさが感じられて、何と無く気の毒なような気がした。
尚子が、そんな気まずさを感じていると、同じように、部屋の空気が重くなった事を読み取ったように、紀子さんが、明るい口調で、
「よっしゃ・・・、勇志・・・、快くやった・・・!」
と叫ぶように仰り、
「一度辞めた職場に、正月明け早々ノコノコ出掛けて行って、あれこれ引き継ぐなんて、惨めったらしくて嫌だもんねえー・・・」
と仰ると、
「って事は、今夜は、あんたの退職祝いって事でも有るから・・・、もう一回乾杯して、飲み直そう・・・!」
と愉しそうに云われ、夫の寛さんに向かって、
「寛さん・・・、あなたが、もう一回、勇志の退職祝いの音頭を執ってよ・・・!」
と、半ば命令するように云われると、寛さんが、やっと救われたような気分を変えた明るい口調で、
「じゃあ・・・、勇志の念願の退職を祝って、乾杯します・・・!」
と声を上げられ、それに揃えて皆が唱和して、忘年会の空気は、やっと元に戻った。
その唱和に合わせて、一礼しながら
「ありがとうございます・・・!」
と照れたような顔を見せた宝田は、そのまま紀子さんの隣に来ると、報告が遅くなった事を詫びたが、そんな宝田に、紀子さんは、穏やかな顔で笑いながら、
「兎に角、念願叶って辞められたのだから、善かったじゃない・・・!」
と云われたが、それに続けて、宝田の眼を正面から視て、幾分心配したような顔で、
「でも・・・、あんた・・・、お母さんには、その事、報告したの・・・?」
と訊かれた。
宝田は、それに応えて、少し困惑した顔で、
「いえ・・・、まだですよ・・・!」
とだけ応えて苦笑いをした後、右の掌を後頭部に当てて、
「今年の大晦日は、我が家は、大荒れですかねえ・・・!」
と他人事のような云い方で云って笑った。
尚子は、宝田のお姉さんたち二人が、未だ役所退職に大反対されて居ると云う話を聴いて居たので、年末年始で帰って来られるその二人のお姉さんたちから、宝田が、相当責められるのだろうと想うと、幾分気の毒なような気もしたが、それでも、自分の意思を押し通し、最後には、嫌いに嫌った役所体質への意地まで貫き通して、僅か二日で、誰にも文句を云わせない引き継ぎ書まで叩き付けた矜持には、拍手を贈りたい気持ちになっていた。
その夜の忘年の宴は、途中で幾分かの空気の重さも孕んだが、最後は、普段と同じような雰囲気に戻って、和気藹々の内に、お開きの時間となった。
全員での片付けが終わり、いつもの3家族も順次引き上げて行かれたし、寛さんのお客さんたち二人も、どこか語り合ったような雰囲気で揃って帰られると、後に残ったのは、林田夫妻の他は、後輩の桑畑くんと、彼が初めて伴って来た同僚の彼女と宝田と尚子の六人になったが、その桑畑くんも、
「彼女が遅くなるといけないので・・・!」
と云うと、30分もしない内に暇(いとま)を告げて帰って行ったので、結局、他人は、尚子と宝田の二人だけになってしまった。
宝田は、当然、今夜は、自分の塒(ねぐら)にしている屋根裏部屋に泊まり込むつもりで来て居るのは判って居たので、
「後は、私一人が残っちゃったな・・・!」
と想っては居たが、斯と云って、直ぐに暇(いとま)を請える雰囲気では無さそうに感じた。
今夜の紀子さんは、どこか心がざわついて居るように、尚子は感じられたのだ。
「ここは、もう少し紀子さんにお付き合いしなきゃいけないだろうな・・・?」
と想いながら、キッチンでの洗い物や片付けを確かめて、暖炉の前に据えられた座卓の処に顔を出すと、入って来た尚子の顔を視上げた紀子さんが、憮然とした表情を宿したまま、自分が座った右側のテーブルの天板を、掌で、軽く二回パンパンと叩く仕種をされた。
それが、
「此処に座れ・・・!」
と云う意味だと理解した尚子が、促されるようにそこに座ると、紀子さんは、
「こんな日に、尚ちゃんが飲めないと、愉しく無いわねえ・・・!」
と不貞腐れたように仰り、眼の前に座った宝田を睨むような顔で、
「あんた・・・、今夜は、私に付き合いなさいよ・・・!」
と命令するように仰った。
明日が、実家の餅つきの日になって居た尚子は、
「今夜も、泊まれば・・・⁈」
と誘って下さった紀子さんに、その旨を告げて誘いを断って、アルコールも飲まずに、その時間まで居残って居たのだった。
ご主人の寛さんは、二人の子供の様子を視に行かれた様子で、紀子さんの前には、飄然とした顔をした宝田しか座っては居なかったが、その眼は、紀子さんの目線から逃げるように、暖炉の中に揺れて居る炎を視ているようにしか、尚子には視えなかった。
その背中姿を視ながら、
「あっ、この男(ひと)も、さすがに、今夜の紀子さんの機嫌の悪さを感じて居るんだな・・・⁈」
と想い、この後の二人の話の成り行きと云うか、紀子さんの荒れ方に興味を覚えたが、今夜の尚子には、その成り行きを全部聴けないし視れ無いのが、少し残念な気がした。
(つづく)