さすがに、その夜の宴の主目的が、この一年の慰労の忘年会である事を弁えて居られた紀子さんは、最初から、その雰囲気を壊すような無粋な事はなさらず、普通に宴は始まり、皆、和気藹々と飲んだり食べたりして、暫くは、何事も無く進んだのだが、子供たちのお腹が満たって、子供部屋へ引き上げた頃になって、紀子さんが、徐(おもむろ)に、男性軍の席に座って賑やかに語って居た宝田の背中に向かって、
「こら・・・、勇志・・・!」
と声を上げられ、手に握って居られた殻付きのピーナッツを一つ、投げ付けられた。
その瞬間、尚子は、
「ついに、始まった・・・!」
と想ったのだが、呼ばれた宝田は、然程動じる気配も見せず、ゆっくりした動作で体を回転させて紀子さんを視ると、平然とした顔で、
「何ですか・・・?」
と云うと、向き直った眼の前に堕ちて転がって居たピーナッツの殻を拾った。
「ったくー・・・、あなた、今夜、皆に報告しなきゃいけない事が有るんじゃ無いの・・・⁈」
と云われると、宝田は、
「ああ・・・、その事ですか・・・!」
と云う表情で紀子さんを視て、
「後で、報告しようと想って居たんですがね・・・!」
と云うと、
「仕様が無い・・・」
と云う雰囲気で立ち上がり、燃えて居る暖炉の横に行って立つと、幾分畏まった表情と口調で、
「わたくし、宝田勇志は、今月末日を持ちまして、目出度く市役所を退職させて頂くことが適いました・・・!」
と云って、深く一礼した後、
「これまでも、何度かお騒がせ致しましたが・・・、今度は、正真正銘の退職辞令を、今日午前中貰いましたから、これで、晴れて、普通の一市民になれました・・・」
と云った後、
「と云っても・・・、正式な日付は今月末日付けですから、正式には、あと二、三日ありますけどね・・・!」
と、最後の方は、幾分茶化したような云い方をした。
その表明を聴いた瞬間、女性陣の席に座って居た奥様二人が、まだ全く聴いて居られなかったようで、驚いたような表情をされたが、男性陣の方では、既に識れ渡って居た話だったので、誰も驚いた反応は示され無かった。
その宝田の一言を待って居たように、空かさず、紀子さんが、如何にも怒ったような口調で、
「何で、こんなに急なのよ・・・!」
と仰った。
宝田は、不貞腐れたような口調で、
「俺も、判りませんよ・・・!」
と応えると、一昨日の昼前から今日までの一連の経緯を、特に、紀子さんに向かって説明するように語り始めた。
一昨日・・・。
つまり、12月26日の昼直前に、電話で総務課長から
「ちょっと来るように・・・」
と呼び出された宝田は、
「また、残業伺いの事か・・・?」
と想いながら、総務課へ向かったと云う。
その直前に受け持った「温泉保養施設」の入札準備事務でも、それまでのポリシーを曲げないで、ずっと残業伺いを出さずに9時、10時まで居残って仕事をして居たので、夜警の職員から、何度も
「伺いを出してくれ・・・!」
と云われて居たので、それが、また問題になったのだろうと想って居たのだと云う。
ところが、総務課長の処へ行くと、
「ちょっと此方へ・・・」
と云われて、簡易な応接スペースへ連れて行かれ、いきなり
「君から出された退職願いを正式に受理したので、今年一杯で退職して善い・・・!」
と云う話だったと云う。
瞬間、
「おう・・・、これで遂に辞められる・・・!」
と想って喜んだのたが、総務課長の言葉の後半の、
「今年一杯で・・・」
と云う言葉が耳に引っ掛かったので、そこを確認するために、
「今年一杯・・・と云うのは、今年度一杯ってことですか・・・?
それとも、今年一杯・・・と云うことですか・・・?」
と訊き直したら、総務課長は、
「然も当然・・・」
と云う顔で、
「今年一杯だよ・・・!」
と返されたらしい。
宝田は、そこを語る時、然もおかしそうな顔で笑って、
「そう云われた瞬間・・・、一瞬、頭が真っ白になりましたよ・・・!」
と云った後、
「でも、辞めるって願い出たのは、こっちですからね・・・。
だから、『辞めさせる・・・』って云ってくれてるのに、『そんな急には、困ります・・・』とは云えないでしょう・・・⁈」
と云うと、幾分憮然とした口調で、
「だから、素直に『判りました・・・!』と云って、総務課を出たんですよ・・・!」
と云った。
そこまでを、黙って聴いて居られた紀子さんが、今度は、夫の寛さんに向かって、
「役所って、そんな卑怯な事をするの・・・⁈」
と毒吐くように云われたが、寛さんも、宝田の話に戸惑いを隠せないような顔で聴いて居られたので、
「俺に訊かれても・・・」
と云われただけで、同じテーブルを囲んで居た他の職員の3人の顔を、見廻すようにされたが、誰もが、困惑の顔をして居るばかりで、何の応えも出て来なかった。
男性陣の、その反応に、更に立腹された表情の紀子さんが、その眼を尖らせたような顔で宝田を視て、
「それで・・・!」
と、先を促すように眼で合図をされると、宝田は、また、淡々とした口調で、先を語り始めた。
総務課を出た宝田は、建設部の自分の机に帰るまでの廊下を歩きながら、必死に、
「ここからどうすれば善いか・・・?」
と考えたと云う。
と同時に、一方で、
「無性に肚が立って来た・・・」
とも云った。
「少なくとも、建築課長や部長は、この事を識って居たはずだ・・・!」
と想った宝田は、それを、今日の今日まで、今の今まで、自分に一言も告げず、
「識らんぷり・・・」
で通した直属の上司に、無性に肚が立ったのだと云った。
だから、部屋に帰った宝田は、その脚で、そのまま建築課長の机の前に行き、
「今、総務課長から、退職願の受理を告げられました・・・!」
と報告した後、
「『今年一杯で・・・』と云われたのですが、後の引継ぎを、誰にすれば善いですか・・・?」
と問うたのだそうだが、建築課長は、まるで当惑した顔で、
「引継ぎの相手が、まだ決まって居ないので、引継ぎは、年が明けて、担当が決まってから引き継いでくれれば善い・・・」
と云ったのだと云う。
そこで、宝田の、そこまでは、まだ若干冷静だった感情の線が、
「一気に切れた・・・!」
と云って、笑った。
つまりは、辞職は、年内一杯で辞めさせて措いて、事務引継ぎは、どうせ直ぐには仕事も決まらないはずだから、年が明けて早々に担当を決めて、
「その職員に引き継がせれば善い・・・!」
との、役所側の魂胆が読めたのだと云う。
当に、
「人を馬鹿にした話だ・・・!」
と想った宝田は、瞬間、
「ようし・・・、そっちがその気なら、その逆を行ってやる・・・!」
と決めると、そこから二晩三日を掛けて、28日までに、
「完璧な引き継ぎ書・・・」
を創って、
「課長の机に、叩きつけてやる・・・!」
と想ったのだそうだ。
そう云えば、一昨日の昼過ぎ、教育委員会に現れた宝田は、退職願いが受理された事と、今年一杯で辞める事になった事を、松元係長や課長に報告した後、
「あと二日間で、引き継ぎ書を書かなきゃならないんで、これで失礼します・・・!」
と云って、先を急くように足早に事務所から引き返して行ったのだったと、尚子は、改めて想い出して居た。
その時、まるで、回れ右をするように出入口へと振り向く動作の途中で、驚いて成り行きを視守って居た尚子と一瞬眼が合ったが、その眼は、明らかに
「遂に、遣りましたよ・・・!」
と嬉しそうに笑って居るように、尚子には視えたのだったが、その時には、もう自分の肚の中では、
「そっちがその気なら・・・!」
と云う闘志が燃え上がって居たのだと、今、改めて想い識らされていた。
そして、部屋から出て行く際に、チラッと合わせたあの眼の中に、尚子が感じた輝(ひか)りは、
「自分が辟易して来た役所体質への、最後の反発の輝りだったのだ・・・!」
と想うと、何と無く気持ち快いものを感じた。
(つづく)