犬や猫は「意識」を持つのだろうか?


動物行動学なんかをやっていると、動物の行動は外界からの刺激に対する本能的反応として記述されるので、動物の心なんて幻想であるかのように捉えられがちである。

しかし、この手の客観的アプローチは、観察対象の主観を知り得ないこととして先から捨象して論じるので、主体としての心が議論に出てこないのは当たり前だ。

我々が昼ご飯をラーメンにするかうどんにするかを判断する時、それは細かく検討していけば、自分の過去の学習経験で形成された嗜好や、その時々の腹の減り具合やら漂ってくる匂い刺激に基づく機械的反応という話にもできる。

しかしそれは、我々が自ら「今日ラーメンだ!」と判断する時に体験している主体性の感覚を否定するものではない。


科学的な捉え方を一旦脇に置いておいて、犬や猫の行動を素朴な感性で解釈したら、彼らにだって意識はあるだろう。

鳴いたり、尻尾を降ったり、頭を擦り付けてきたり、

或いは嬉しそうにしたり、眠そうだったり、ビックリしたり、

そういった仕草には彼らなりの感性や主張が感じられる。

それらをよくできたロボットのような、機械的アルゴリズム計算に落とし込むというのは、いささか無理がある。

もちろん、そういう風に振る舞うアルゴリズムを設計することも可能なのだろう。

しかし普通に考えると、人間と同じ哺乳類に属する犬や猫が「意識」を持ってるかのように振る舞うのであれば、その仕組みは人間と同様の主体的体験に根差した意識によってもたらされると考えるのが自然だ。


さて、本論の目的は、生物進化の歴史において意識の成立はどこまで遡れるかということだ。

意識は化石になって残るワケではないので、「◯億年前」みたいな年代推定は無理だが、生物の系統関係の中で、どこまで意識が認められるかを推測するのはある程度可能だろう。


少なくとも哺乳類に関しては、総じて「意識」的なものを持っていると見做すことに、さほど違和感はないだろう。

野生の連中よりは、ペットの方がより「意識」の存在を感じさせるのは、動物の意識の様態が学習の影響を受けるということを示唆しているかも知れない。

人間の中で一緒に育てられた動物は、人間とのコミュニケーションを通じて人間っぽい様態の意識を形成するのかも知れない。


哺乳類とは逆に、昆虫なんかは意識を持ってそうにない。

彼らの行動は見事に機械的であり、可塑性は総じて少ない。

夜に電撃殺虫灯に集まる虫たちは、仲間たちが焼死してバラバラと墜落する中を、本能の命令に従って次々に突撃していくのだ。

別に、神風特攻隊のように「お国を護る」という大義を抱えて死の恐怖の戦いながら突撃しているワケではない。

行かなくてもいい所に、何も考えずに突撃している。

そこにはもちろん、独特の様態の「心」があり、彼らなりにそれを主体的に体験しているのかも知れないが、「意識」と呼ぶに相応しい機能を備えているかどうかは怪しい。

自分の判断を内省して修正できる可塑性があれば、矢鱈と突撃はしないだろう。


では、爬虫類は意識を持つだろうか?

ヘビやカメなんかは意外と賢く、人に懐いたりもするようだ。

こういった彼らの賢そうな行動は、擬人化されて捉えられているだけで、そこに人間的な意識はないのかも知れない。

しかし、状況に応じた複雑な反応を返せるのであれば、そこには何らかの内省があり得る。


…とこんな風に考えてみると分かるのだが、

生物界において意識がいつ頃誕生し、進化の系統樹をどこまで遡れるのかというのは、どこまでも曖昧である。

それは「意識」とは何ぞやを定義すれば良いという話ではない。

生物種というもはもともと境界が曖昧な概念であるし、そんな中で、多様な様態で少しずつ進化してきたであろう何らかの機能の起源なんて、明確にできるものではない。

仮に意識を持つのは人類だけだと仮定してみても、その人類の起源において、いつの誰から意識が始まったのかなんて、ハッキリ線を引けるはずがないのだ。