心的性質としての優しさは、誰もが多かれ少なかれ生得的に持っているものだとするなら、「優しく在る」というのもそれほど難しく考えることではないのかも知れない。

性善説を唱えるつもりはない。人間は利己的でもあるし利他的でもある。

自分の中にある、そういった性質に気付くことが大切なのかも知れない。


さて、バリアフリーやユニバーサルデザインといった言葉を、誰もが以前から耳にしたことがあるだろう。

次はこれについて考えてみたい。

お食事前向きの小話ではないので、ご注意いただきたい。(笑)




公衆トイレの男子用トイレには、大きい方の個室とは別に、オシッコ用の小便器が並んでいる。ご婦人方も、チラッと覗き見たコトがあるだろう。(笑)


公衆トイレの小便器は、昔はチューリップ型だった。

成人男性の下腹部くらいの高さに丸い器が設置されている。ここにアレをアレするのだ。(笑)

しかしこの小便器は、小さい子供には不向きである。器の位置が高いので、届きにくいのだ。(・_・;

小さい子供が、必死で背中を反らせて上向きのオシッコアーチを作り、届きにくい小便器に立ち向かっている様を時折見かけたものだ。


そんな子供のために、端の方に子供用の低い小便器が1、2台設置されている公衆トイレもあった。

これがバリアフリーである。

子供など背の低い人には、人それぞれの身長差がバリアー(障壁)となって公衆トイレが利用しづらい。

そこで、成人用とは別に子供用の小便器を設置して、背の低い子供などが利用できるようにする。

バリアーがあるという前提で、そのバリアーに個別対応するのがバリアフリーである。


一方、今時の公衆トイレでは、チューリップ型の小便器なんてほとんど見かけない。

器が胸の高さから足元まで伸びた縦長の小便器ばかりになった。

これなら大人・子供に関わらず、あらゆる身長の人が同じ感覚で利用できる。

これがユニバーサルデザインである。


人それぞれの条件に応じたバリアーがあるという前提で、それを個別に補助するのがバリアフリー。

それに対して、人それぞれの条件とは無関係に誰もが同じ感覚で利用できるようにして、バリアー自体を無かったことにしてしまうのがユニバーサルデザインである。


公共施設の玄関に階段があると、松葉杖や車椅子の人は入りにくい。

そこで、階段の手前にインターフォンを設置して「介助が必要な方はここから申し出て下さい」とするのがバリアフリー。

これに対して、階段を取っ払ってスロープにしてしまうのがユニバーサルデザインである。


完璧なユニバーサルデザインというのはあり得ない。

縦長の小便器は、身長差というバリアーを消滅させたが、車椅子の方には尚も利用しづらいであろう。

ユニバーサルデザインは、目指すべき理念であるが、完璧というのは難しい。

しかし、完璧な実現が不可能ということは、それに価値がないということを意味しない。

理念とはそういうものだ。


さて、本題に移ろう。

縦長の小便器を初めて見た子供は、そこで小便器に共感してその「優しさ」を感じたりしただろうか。(笑)

便器の気持ちに共感するというのは、さすがに無理がある。

しかし、そのデザインに込められた製作者の優しい想いを感じたかも知れない。

あるいは、ネオ・オカルティズムで議論したように、人間は時に無生物にも魂を(誤って)見出してしまう動物なので、縦長便器の「優しい」魂を感じてしまったりしたかも知れない。ワタシはあまり深い印象は受けなかったが。(笑)


人間が生得的に持つ、優しい心の性質というのは、このような形でも表出しているのかも知れない。

デザイナーさんは、どこかで困っている人を見聞きし、その窮状に共感したのだろう。

そして、その人に御礼を言われたかった訳でも褒められたかった訳でもなく、ただ仕事としてやるべきことをやっただけなのだろう。世間の賞賛なんて後から勝手に付いてくるものだ。

まして、縦長便器やスロープが何か優しいコトを考えているワケではない。

それらは、ただそこにそのような形で在るだけだ。そこに下心はあり得ない。


人間が持つ自然な本性としての「優しさ」は、社会のそこここに当たり前のように在る。

それは当たり前過ぎて気付かれにくい。本人でさえ気付いていないであろう。

しかし、そこには確かに価値があるのではないだろうか。