さて、前節では「魔法」と呼ぶに相応しいのは、どのような性質の技法であるのかを素描してみた。


魔法とは、科学的に定式化される自然法則には従わない、科学とは全く異なる原理に基づく技法である。

そんな技法は果たして存在し得るのか?


ここで「科学は不完全だから」「科学は万能ではないから」というような具体性の無い一般論を持ち出すのは安易で不毛である。

ここが古いオカルトとネオ・オカルティズムの分水嶺でもある。


古いオカルトは、とかく「分からないコト」を根拠にして物事を説明しようとする。(-。-;

「人間の知識は不完全だから」

「科学は世界のほんの一部しか解明していないから」

だから、

「死者の霊魂は存在するかも知れない」

「ヒマラヤには未知の類人猿が存在するかも知れない」

「宇宙人はUFOに乗って飛んできているかも知れない」

「魔法は存在するかも知れない」

などと、未知の空白地帯に何でもかんでも詰め込もうとする。(・_・;

そしてさらに、

「可能性を否定するのは頭が硬い」

「無知を認めないのは思い上がりだ」

などと人格を否定することで反論を封じ込めようとする。

実につまらない話だ。(-。-;


この世界には、分からない事なんていくらでもある。

そして「分からない事がある」というのは、別に霊や雪男やエイリアンクラフトや魔法が存在する事の根拠ではない。

これは単に「分からない」と言ってるだけの、そこから先に進みようの無い思考停止ポイントを示しているに過ぎない。

そこに「未来科学」なる言葉を貼り付けたところで、その未来科学は誰にも分からない。

分からないコトに分からないコトをいくら足し合わせていっても、何も分からない。

0+0はいくら足しても0である。


ネオ・オカルティズムの作法は、思考停止の袋小路で立ち止まって無限の空想を膨らますコトではない。

分かる事を積み上げて、それを元手に、そんな事がそもそもあり得るかどうかを議論する。


では、魔法という技法はあり得るのだろうか。

客観的現実の中に、科学的に定式化される原理とは全く無関係の異なる何かを定立し、それを現実の中で実現するコトなんてできるのだろうか。