生物界において、意識が誕生したのはいつなのだろうか?

これは言い換えると、犬や猫などの人間以外の動物は意識を持つのかという問いでもある。

進化の歴史において、意識という機能はどこまで遡れるのだろうか?

これは「意識」をどのように把握し、定義するかによって答えが変わる問いでもある。


ここまでの議論では、人間の意識に焦点を当てて、考えたり感じたりするコトが意識であるという素朴な見方で考えてきた。

しかし、人間以外の生き物にまで遡って考えるのなら、「意識」を定義できないまでも、その様態はある程度考慮すべきであろう。

以前ネオ・オカルティズムで論じたように、植物だって主体的に外界に関わっている以上、そこには植物なりの主体的体験としての、かなり変わった様態の「植物の心」があると考えられる。

「心」とは何か、「意識」とはどのようなものかをどう考えるかによって、その生き物が意識を持つと言えるのかどうかの判断は変わる。


ただ、こういったことを個別に論じ始めるとキリがないし、そもそも我々は植物や動物の「心」を自らの体験として把握できるワケではない。

だからここをあまり突き詰めて考えても、論理的必然性のない空想しかできないだろう。


これと関連してもう一つ重要なのは、最初に論じたように、主体的体験というのはその本人にしか体験できないし、我々は他人の心を推測することしかできないという点だ。

例えば我々は、犬にも意識があるように感じてしまうが、ひょっとすると犬には意識も心もなくて、あたかも心を持つかのように振る舞っているだけなのかも知れない。

このような、知りようの無いことについて、何か考察することができるのだろうか?


しかしこの点も、さほど過大に捉えるべきではない。

最初に論じたように、主体としての「私」が認識する客体としての「世界」が確かに存在するのであれば、その中で「私」だけが心を持った唯一の存在であると見做す極端な独我論には、そうでなければならない必然性がない。

「他人の心」を体験的に知ることができないのは事実であるが、それは「他人の心」が存在しないということを意味しない。

むしろここは素朴に、「私」と同じような主体が他にも普通に存在するという素朴な前提を受け入れるべきだろう。

「世界」が存在する、その中において「私」だけが独自の存在であると見做してしまうと、

その「私の心」の様態に関する考察自体が、存在する「世界」の中において普遍性を持たない単なる空想となってしまう。


ということで、以下の考察では、我々が日常体験の中で推測しているように、人間以外の生き物も含めた「他者の心」には一定の蓋然性があるという前提を認めよう。

そして意識の定義については、

自ら感じたり考えたりする主体的な体験であって、なおかつその主体性の体験を内省的に把握する自己参照性を有すると言うに留めておこう。これは、「私」自身を認識対象にして主体から分離させるための時間フォーマットを持つということでもある。