意識はこの瞬間の泡沫として立ち現れる。

しかしそれは、5分前のワタシが意識を持っていなかったということを意味するわけではない。

もちろん、3時間ほど前のワタシは未だ意識なく寝ていたのだが。(笑)


意識は物体のように持続するものではないが、それは意識が「存在」しないとか、その場限りで終了するものであるという意味ではない。

単に物的な様態で「存在」するわけではないというコトである。

例えて言うなら、それは温泉で絶えずボコボコと立ち昇ってくる泡のような様態と言えるかも知れない。

しかし、温泉の泡のように噴出源となる何かがあるワケではない。スピリさんなら「意識が温泉の泡のように立ち昇るのなら、その噴出源があるはずだ。それが魂である。」とか言いそうだが、その捉え方がそもそも物的センスを誤って適用した勘違いである。

もちろん、唯物論的一元論者なら、意識とは脳を噴出源として立ち昇る泡沫だとでも言うだろう。スピリの発想は、脳を魂と言い換えているだけで、どこまで行ってもパロディ唯物論なのだ。(笑)


さて、「私」の意識はいつから現れていたのだろうか?

ワタシも含めて大抵の人が遡れる記憶は、物心ついた2、3歳くらいの朧げな断片までだろう。

しかし0歳や1歳のワタシだって、複雑なことは考えられなかったにせよ、色々なことを感じて主張していたハズである。

人は産まれた瞬間に光を浴びて、産声をもって意識に目覚めるのだろうか?


しかし、内省とか自己参照とかの難しい機能ではなく、単に主体的な体験としての意識を考えるなら、もっと遡れる筈だ。

お母さんのお腹の中で、赤ちゃんがお腹を蹴っ飛ばすなんて普通にある。その時には既に、能動的な行動を執り行なっているのだから、そこには何らかの主体が確立していた筈だ。


では、脳ができる頃まで遡れるのだろうか?

しかし「脳ができる時点」というのがあるのだろうか?

普通に考えると、脳に限らず身体のあらゆる器官は、細胞分裂を重ねながら少しずつ作られていくものだ。どこかの時点で落成式が執り行われて完成し、代表取締役がスイッチを入れて起動するワケではない。(笑)

生命活動においては、脳も身体も少しずつ複雑化していく。そのどこかに完成ポイントや起動ポイントがあるわけではない。

当然のことながら、どこかの時点で霊魂が取り憑いて起動するという心霊主義の発想もこの時点で棄却される。

生命は常に活動し続けており、その営みの中で受精したり分裂したり分化したりしながら次第に複雑化していくのだ。


つまり、「私」の意識のスタートポイントというのは曖昧な霧の中にある。

それは「私の生命」のスタートポイントが曖昧であることと同様であり、それらの曖昧さを規定する論理はどちらも同じ原理である。


では、持続し続ける生命活動が38億年前まで遡れるのなら、生命における主体的意識の出現はどこまで遡れるのだろう。

次はこれを考えてみる。