意識とは、今現在この瞬間の主体的体験である。それは浮かんでは消える泡沫であろう。
また、過去の記憶というのも、また心の中に浮かぶ泡沫である。
つまり、過去から連綿と継続する「意識の持続性」なんてないのだ。
では、我々が日頃当たり前のように受け入れている「過去から持続する私の歴史」という感覚は幻想なのだろうか?
我々は写真アルバムを見たり、昔話に興じることで、自分がずっと昔から継続して存在し続けてきたと繰り返し刷り込まれ、自己洗脳しているだけなのだろうか?
こういう話になってしまうのは、主体的体験としての意識のみで判断しようとするからだ。
「私」のアイデンティティの大半は、実は「私」の意識ではなく、「私」の身体によって維持されている。
「私」は朝目覚めた時、自分の身体がこの見慣れたいつもの姿であることをもって、自分がいつもと変わらぬ自分であることを確認するのだ。
「私」がずっと昔から継続して存在し続けたと言えるのは、途切れることのない記憶として意識の持続を確認しているからではない。
古いアルバムの中に自分の姿を見出し、あるいは思い出話で過去の自分が身体を持って存在したことを確認できるからだ。
このように、心と身体が一枚のコインの表裏のように一体であることを認めることで、我々は「私」のアイデンティティを維持している。
我々は、自分の身体がずっと継続して存在し続けているという暗黙の前提を受け入れることで、記憶と記録の一致をもって、自分の過去の確かさを確認できる。
しかし、身体の継続が途切れてしまっている前世記憶とやらの確かさを、記録との一致をもって証明することができるだろうか?
死ねば身体は滅びる。意識は泡沫だ。
前世から持続していると見做せるモノは何一つない。
そんな状況で、輪廻転生という前世からの継続を証明するための手段が、継続を前提としてのみ成立する「記憶と記録の一致」であるというのは、インチキ論法であろう。(-。-;
実体二元論は、心と身体を独立した別物であると見做した時点で、意識としての存在の持続性を諦めるしかない。だから、持続性を担保するために魂などという余計な説明概念をでっち上げなければいけなくなるのだ。
しかしそこで想定された魂、すなわち持続性をもった霊魂とは、もはや物的実体のパロディであって、主体的体験としての意識の性質を何一つ掬い上げられない。
このように、心霊主義は科学的実証に入る前の段階で既に破綻しているのだ。
さて、これらの議論を踏まえて再度問い直そう。
心身の一体性を前提とした場合、「私」の意識はいつから存在すると言えるのだろう?