さて、次の思考実験である。

私は「いつから」生きているのだろう?


前節では、生命が38億年前から継続する1つの活動であると論じたが、私はもちろん、38億年前から生きている訳ではない。

今 私はここに生きているが、100年前には私なんてこの世には存在しなかった。生きているとか死んでいるとか言う以前に、存在しなかったのだ。

これはもちろん、前世どうちゃらの議論ではない。

生きた身体をもった個体として、生命活動を執り行っている私の話である。


先に論じた心霊主義のスキームでは、生物とは有機物の身体+心(=霊)であって、身体に心が宿った時点で私が存在し始めたという話になる。

そしてそれは、お母さんのお腹から出てきた時点であるとか、お母さんのお腹の中で受精した時点であるとか、色々な憶測が口にされる。

しかし生命活動として捉えた場合に、このような特定の時点で無生物→生物の質的飛躍が起こるとする考え方はおかしい。


私が戸籍上の独立した人格になったのは、お母さんのお腹の中から産まれた時だ。

しかしお腹の中にいる時から、すでに私はゴンタな奴だったようである。(笑)

では、どこから私は始まったのだろう?

これを生命活動という観点で遡っていくと、受精した時には既に生きていた。

そしてさらに、受精する前の卵子・精子に遡れる。

卵子・精子は、父母の体内の卵原細胞や精原細胞に由来する。もちろん、そんな段階で私の人格なんて形成されていないハズだが、生命活動はどこまでも遡っていける。

父母の生命はさらにその親に遡る。

…結局、私は38億年前からずっと生きていた結果、今ここにこのような形で結実(?)したみたいな話になってしまうのだ。


何を言いたいのかと言うと、私が始まったスタート地点を、生命活動の中のどこかの時点に定めるというのは無理なのだ。

法律上は出産した時がスタートになるのだろうが、それは社会が定めた恣意的なお約束である。

脳細胞が分化した時とか、色々と理屈をこねることはできるかも知れないが、細かく突き詰めれば突き詰めるほどそれは曖昧になっていく。


始まりは曖昧で、どこかにスタート地点を定めることはできない。

それでいて、ゴール地点は死によってハッキリと断絶する。

それが個体としての生命の特質である。

そしてそれは、「意識」の在り方においても同様のことが言えるのではないだろうか?