世界は心的実体と物的実体から成るとする実体二元論は、論理的に唯物論的一元論に解消せざるを得ないというジレンマによって破綻した。

死者の霊魂が実在するとする心霊主義の夢は、その当初から破綻していたのだ。

なぜ、こんなことになったのだろう?

その原因はデカルトの誤謬にある。


先に述べたように、デカルトが定立したのは、認識する主体としての「私」と、認識される客体としての「世界」という、認識論的な二元論である。

これをそのまま、心的実体と物的実体という存在論的二元論にすり替えてしまったところに問題があったのだ。


認識する主体としての「私」とは何なのだろう?

それは、何かを感じたり、考えたり、それについて語る主体であって、

感じられたり、考えられたり、語られる客体ではない。


一方、「心的実体」というのは語られる客体であろう。

「世界は心的実体と物的実体より成る。」

と語ってしまうと、その時、その心的実体はもはや感じられたり考えられたりする認識の客体を語っているのであり、語る主体としての「私」とは別物である。


認識の主体としての「私」を「心的実体」にすり替えてしまうと、それは客体化され、人間によって認識される対象になる。

そしてその「心的実体」の性質を分析しようとしたら、それはもはや主体としての「私」ではなく、「私」の外部に定立される何物かとなる。

それを物的相互作用に依拠した観測で捉えようとしたら、単なる物的実体に解消してしまうのは当たり前だ。


これは「他人の心」においても同様の事が言える。

我々は、他人も「私」と同様に心を持っているに違いないと想定している。

しかし、その「他人の心」を、「私の心」と同様に「私」が主体的に体験することはできない。

「他人の心」は他人のものであって、「私」のものではない。だから我々は、他人の仕草や言動から、他人も自分と同じような心を持っているはずだと推測することしかできない。

「他人の心」とは、あくまでも「私」が認識する客体である。

これがどのようなモノであるのかを観測によって明らかにしようとしたら、その時我々に知り得るのは、

仕草や行動といった物的プロセスや、それを導く脳内の化学プロセスとか、結局は観測可能な物的プロセスでしかない。

だから、被験者という「他人の心」を材料にする心理学や脳科学は、心を唯物論的にしか説明できないのだ。


このように、対象を客観的に把握しようとしたら、我々はその対象を唯物論のスキームでしか把握できないし語り得ない。これは認識という作用にこびりついた、決して解けることのない「呪い」である。

「心」とか「魂」とか「精神」とかいう言葉をいくら使ったところで、それを対象として何かを語り始めた途端、その議論は唯物論になってしまう。

だから、心霊主義もスピリも、空間中を浮遊する死者の霊魂や、物的な影響を与える生き霊や、死後に訪れる別次元の世界などという唯物論的世界観でしか物事を把握できないし語れないのだ。


ここで一旦、本題に戻ろう。

ここまでの議論を踏まえて、生命と意識について改めて考えてみよう。