この世界の物質は原子からできている。

あらゆる物質は原子が結合することで構成される。

様々な性質を持った化合物は、異なる種類の原子の結合によって生み出される。

(´・ω・`)


さて、原子はその中心にある原子核と、その周囲を回る電子からできている。

原子核は極めて小さい。

その大きさは、原子の大きさの1万分の1程度である。(・_・;

そして周囲を回る電子は、原子核よりもさらに小さい。

大変小さい原子核の周りを、もっと小さな電子がかなり離れて回っている。

原子を構成する原子核も電子も、原子全体の1万分の1以下の容量しかない。

つまり、原子というのは中味がスカスカなのだ。(・_・;


この世界のあらゆる物質は、中味スカスカの原子が結合してできている。

なら、なぜワタシが差し出した指先は、テーブルの中にスカッと差し込まれてしまわないのか?(・_・;

なぜ、この世界のあらゆる物質は、隙間なく中味がギッチリ詰まっているように感じられるのか?


それは、原子核の周りを回って原子の外縁を作っている電子が、マイナスの電荷を持つからだ。

原子は、外縁の電子が持つマイナス同士の斥力で互いに反発し合う。

だから、原子自体はスカスカであっても、互いに浸透し合うことはない。

ワタシが壁を叩いたとき、その手が壁をスカッと透過してしまわずに、バーンと叩くコトができるのは、壁の物質を作る原子と、ワタシの手を作る原子が、電磁気力の相互作用で反発し合うからである。

パントマイムみたいなものだ。

(´・ω・`)


さらに先に進もう。

我々はこの世界の様子を、視覚によってこのような映像として見る。

その時、外界から飛んでくる様々な光、すなわち電磁波が神経細胞内で電気信号に変換されている。

耳で聞く音は、空気の振動という空気分子の相互作用、味覚や嗅覚などの化学感覚は様々な化合物の相互作用によってもたらされる。いずれも電磁気力の相互作用だ。


つまり、我々が日頃認識している世界の様態は、電磁気力の相互作用によって、このようなものと認識されるのだ。

その背後にある世界の実相は、我々が認識している通りの様態ではない。

(´・ω・`)


こんなコトは、何百年も前から分かっていることであり、中学校や高校の理科の時間に教わることだ。

世界の実相は我々が主観的に感じているとおりの姿ではない。

しかしその事は、世界が幻想であることを意味するのではない。

単に我々の認識がこういう様態で世界を捉えているというだけのことである。

世界が存在しなければ、我々はそれを、例え不完全な様態であっても認識しようがない。

そして、我々の認識が不完全であるということは、「認識できない別世界」が存在することを意味するのでもない。

「見えない世界」が大好きなスピリさんたちだって、その見えない世界を説明する時は、「霊を見た」だの「死後の世界を見た」だのと「見たもの」ベースでストーリーを作る。(-。-;

視覚だけが全てとは言わないが、何らかの存在を語ろうとしたら、我々はそれを認識可能な範囲でしか語れない。


さて、世界の実相が、我々が認識できないような何らかの様態で実在するとして、

では我々が日頃認識しているこの世界像は何なのだろうか?(・_・;

そこには、「認識」という一つの実態がある。

そしてそこで認識されている世界像は、そのように把握される対象の性質であるとしか言いようがない。

我々のがこの認識フォーマットで把握し、見聞きし語り想像する世界像は性質としての存在である。

例えその向こう側にある何かを把握したとしても、それは我々の認識フォーマットによって把握された時点で、もはや世界の実相としての実在する実体そのものではない。


世界の実相は、決して認識することのできない彼岸の風景である。