先週、所用があって京都の宝ヶ池にある国際会館の方に行った。

もちろん、国際会議に出席したのではない。(笑)


用が済んでから、30年ぶりに宝ヶ池の周りを散策した。

あちこちでコバノミツバツツジが満開で、大変綺麗だった。

池のほとりには、二羽のカルガモが丸まっていた。(笑)

錦鯉もいる。

イロハモミジも目立たずに咲いている。

これはオニタビラコだろうか。

ルリタテハが羽ばたいている!



学生時代には毎週のように通っていたのだが、さすがに30年も経つと、記憶がゴッソリ抜け落ちていた。(・_・;


微かな記憶を辿りながら、

「ああ、ここはこうなっていたっけ」

とか思い出しながらの散策だったのだが、あまり懐かしい感じはしなかった。


道端の朽ちて老木になった桜を見ながら、

(この木は30年前には見事な花を元気に咲かせていたのだろうな)とか、

旺盛に伸びる若木を見ながら、

(この木は30年前には未だ生えてなかったんだろうな)

とか思いながら歩いていたのだが、もちろん、そんな細かいコトは覚えていない。


確かに知っている場所で、それほど大きく変わっている訳でもないのだが、なぜか知らない場所のような、よそよそしさがあった。


30年という歳月が、当時の感情を風化させてしまったのだろうか。

それとも、あまり思い出したくない思い出と共に、気持ちに蓋をしてしまっているのだろうか。(ー ー;)


この歳になり、世間知らずで無力だった頃の劣等感の源泉は全て無くなった筈なのだが、だからと言って懐かしく思い出せるというものでもないらしい。(-。-;

もう、あの頃から倍以上も生きてきたのだ。


人生の感情メモリーは上書き保存されていくのだろうか?

それとも、蓋をしたままずっと心を縛っていくものなのだろうか?

こればかりは、死ぬ瞬間まで分からないのかも知れない。