さて、一つ遅れて緒言である。


以前、もう何年か前になるが「存在と現実」という論考で、存在論を議論した。

この中で、「存在」という言葉は多義的であり、ニュアンスの異なる同音異義語がごた混ぜになって使われていると論じた。

「存在」は大きく、以下の4つに類別される。

① 実体としての存在

② 実体に付加する性質としての存在

③ 社会的なお約束としての存在

④ 主観的体験の質感としての存在

そして、これら4種の「存在」それぞれについて、それが事実として成立するために必要な要件を論じた。


あの後随分時間が過ぎたが、このスキームは間違っていないという確信を深めている。

物事の有り様やそれに対する認識の組み立て方は、そこで議論する対象の性質をこのスキームで整理することによって、大変分かりやすくなる。

古いオカルトにありがちな勘違いや違和感のある話も、このスキームで捉えることで問題点が明白になる。


しかし、この手の話にはどうしてもスッキリしない部分が付きまとう。

こういった類の議論は、科学的実証のように、定量分析によって蓋然性の程度を評価するものではない。

存在とは物事を認識するためのスキームである。

「存在とはこういうものだ」という前提で人は物事を認識し、解釈する。

物事の捉え方や考え方というものは、一つ間違えると「考え方は人それぞれ、他の可能性がないとは言い切れない」的な、古いオカルトにありがちな相対論の迷宮に絡め取られて、思考停止の袋小路にハマってしまうものである。


「存在」というのは、本来、証明するものではなく、定立するものである。

机の上に置かれたリンゴが実在することを、我々は通常、証明なんかしない。

リンゴはそこに見えてるじゃん、触れるじゃん、ホラ、君にも確認できるじゃん。これは間違いなく存在してるやん。

この時我々は、映像や触感などの感覚像の性質に基づいてリンゴを定義し、それを誰もが同じように確認できるという普遍性・客観性に基づいてリンゴという存在を定立している。

それは証明ではなく、このようなものが存在であると定立しているのだ。

その日常感覚は大切であるし、身近な日常を説明できない議論は意味がない。


あるいは、理論的予測でしかなかったニュートリノやブラックホールが存在することは、直接観測によって科学的に証明された。

ニュートリノやブラックホールは、過去のデータに基づく理論的予測によって、「このような観測的性質を持つモノ」として定義されていた。

そして、その通りの性質のモノが実際に観測されたから、我々はそれをもってニュートリノやブラックホールの存在証明とする。

ここでもその存在は「このような定義と一致する性質のモノが観測されたら、それがニュートリノなのだ」という風に定立されている。


最初に述べた4種の「存在」は、それぞれのニュアンスにおける存在の定義であり、こういった4種から成るものとしてワタシは「存在」を定立した。

このやり方が正しいのかどうかは、実験や観察で決着できる性質のものではない。

その実験や観察の結果を解釈するためのスキームが「存在」なのだ。

これは結局のところ、様々な存在に当てはめてみることで検証するしかない。


そこで今回目指すのは各論である。

冒頭の「虹」のように、不可思議な様態を示す存在を分析してみることで、このスキームの有効性を改めて検証してみると共に、問題点や反証例なんかがあったらそれを明らかにしたいと思っている。